三原橋 3 地上の風景
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南側から北側を見たところ。傳八の下に三共カメラが入っている。この幅がほぼ三十間堀だ。
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南側の橋前の地点から三原小路の入り口を見たところ。
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橋際に作られた建物の地上階段。
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南側の橋(もと三十間掘り)から三原通りの「ミヤマカメラ」を見たところ。


三原橋の地上部分は当然道路(晴海通り)だ。
一枚目は橋の南側から北側を見た風景。三十間掘りはちょうどこの三階建ての建物分分だ。ここには「傳八」「三共カメラ」なんかが入っている。後ろに見えるのは三十間堀を埋め立て造成して売り払った土地にできたビル郡。

三十間堀川は名のとおり幅55mの堀で京橋川から汐留め川に繋がっていたが、戦後の埋め立ての際にはすでに幅25m位になっていたようだ。
しかし中央の教育委員会碑によれば、「江戸時代初期の『寛永江戸図』に三十間堀と見え、堀の南側は紀伊徳川家をはじめ、京極(きょうごく)、加藤、松平などの諸大名の屋敷が並んでいました。延宝年間(1673~1681)の図では西岸は三十間堀町1~8丁目、東岸は木挽(こびき)町1~7丁目で、河岸場があり、舟運の荷物の揚げ場でした。 幕末から明治時代にかけて、船宿が並んで屋形船や屋根船が往来し、明治三十四年(1901)の『新撰東京名所図会』にも、その賑わいの様子が描かれています。
 明治十七年(1884)、三十間堀には真福寺橋、豊蔵橋、紀伊国橋、豊玉橋、朝日橋、三原橋、木挽橋、出雲橋等多くの橋が架けられていました。
 三十間堀は戦後、灰燼(はいじん)の山を処理するために、昭和二十三年(1948)から埋立てが始まり、同二十七年(1952)七月に完了したあとは次第に商店やオフィスなどの立ち並ぶ街になりました。」ということ。

そもそも銀座というところは、幕末ではもとは堀に囲まれた島のようなところだったようだ。汐留川、外堀川、京橋川、三十間堀川の四つの掘割で囲んだ地、それが銀座の原型。それが戦後全て姿を消すこととなったが、最初に埋め立てられたのは三十間堀川。 昭和23年のこと。東京大空襲の際に、大量発生した灰塵の処理に充てられ、埋められ、その後、30年代に入ると昭和自動車専用道路建設のため外堀川が埋められ、京橋川、汐留川も続々と姿を消していった。
しかし、四つの掘割にかけられていた橋の名は残った。銀座へ足を踏み入れるにはいまでも必ず「橋」を渡ることになっている。

それはともかく、この三十間掘りを戦後の瓦礫で埋め立て、「美麗なる都市を建設する」という名目で売り払い、橋際の異形景観を出現させたのは、当時の安井知事(戦時中は東京都長官(官選)、戦後自治体となって知事となる)の発案になるものだったようだ。

いろいろな事情はあろうが、しばらくの間、この売り払い地区は東銀座地区の異風景を呈していたが、だんだん「美麗化」してきたようだ。


まだPCの修復は進まない。
明日は雨のようなので、フォトショップやいろいろインストールしよう。
PCって壊れてみると再構築は大変な作業だな。
by aizak3 | 2009-05-04 22:02 | 盛場1/銀座/有楽町新橋/新宿
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