
近藤勇は不思議な人だな。旗本御家人でも幕府崩壊に無関心な時期、ただ武士になりたいだけでなぜ命を懸けたのだろう。ところでこの道、舗装もされずにずっと繋がっている。

明らかに公道だろう。都電の敷石かな?誰が敷いたのだろう。

ここは行き止まり。この地区はこんな階段の道がほかでも目につく。
市谷柳町の一郭に残る路地です。しかもこの路地は私道ではなくて公道らしい。
柳町交差点はモータリゼーションの急激な進行で、排気ガスによる「鉛公害」問題を引き起こしたところ。
環状7号線の「大原ぜんそく」とともに「アンチ・クルマ社会」運動の引き金となった地区だった。
柳町事件は、ガソリンへの鉛添加物が禁止され、排ガス規制が拡大されていく契機となった。
柳町の地勢は西側は若松町辺りから、東側は山伏町辺りから、急激な坂になっていて、
いわば東外苑通りが川のような形になり、柳町交差点がちょうどその窪地の谷底になっている。
いまは公害問題がウソのように消えてしまったが、これは排ガス規制の効果とともに、
大久保通りの信号位置を工夫してこの交差点で坂道を発進するクルマを少なくしたためらしい。
ところで、市谷柳町の地名の由来は単に柳の木が多かったからだという。
もとは市谷村川田窪の一郭で、寛文以前に既に町屋があり、大久保通りの北側は川田久保、南側は柳町と俗称されていたという。
正徳三年(1713)それぞれ町奉行支配(江戸市中)となり、川田久保は牛込川田ヶ窪町、柳町は市谷柳町と称した。
明治4年、町域が拡大され、市ヶ谷柳町・牛込川田ヶ窪町・市ヶ谷甲良屋敷・清内屋敷・光徳院・御旗組大繩地・御槍組大繩地・牛込原町二丁目の一部・宗円寺・旗本屋敷を合わせた町域を市谷柳町として現在に至っているらしい。
こんなに合わせれば大地域と思われるだろうが、さにあらず。小さな町域である。新住居表示は実施されていない。
新宿区は戦後の東京23区体制(当初は練馬区が未成立で22区体制)への再編に当たって、
淀橋区、牛込区、四谷区の三区が合体したものだが、四谷区も牛込区も淀橋区(東京市15区時代は淀橋区は郡部だった。大東京時代に東京市35区体制となり、郡部から淀橋区、渋谷区、中野区などが成立した)との合併を嫌がり、四谷区は麹町区と、牛込区は小石川区との合併を画策してゴタゴタしたらしい。
いまだに町名に市谷や牛込を冠称しているところがあるのはその時代の気分の名残だろう。
地名が変わると自分の生きてきたアイデンティティーが失われる気がする人がまだ生きている地域なのだろう。
「more」にも写真あります。


