めずらしく東京に朝から雪が降り続いている。
そんな日にさくらは場違いだが、写真を整理していたら、「見る」ということで自分のさくらの写真を整理してみる気になった。遅ればせながら、西井一夫を読んでみたら、「見る」ということは、結局、自分の体験、記憶との照合らしい。自分に関心のないことは見ても見えない。しかし、写真では見てなかったものも写る。写真の面白さだが、こういう「写真」を見る者(側)は、また自分の体験、記憶を通してしか他人の撮った写真は見えないということになるのか。「see」が「わかった」と密接に結びついている人間の脳の面白さ。
去年、都写美で展示された鈴木理策の「熊野・雪・桜」は、展示空間自体が熊野では真っ暗、雪と桜では真っ白で、視覚で「写真」を見せるのではなく、見るものに展示空間の中で対象と一体になって「その場」を五感で体得させるものだった。見るつもりで会場に入った者は熊野では暗闇の中で熊野の光を感得し、雪や桜では展示物も壁も床も判別できない真っ白な空間の中で、雪と桜の中に包み込まれる仕掛けだった。これは未体験者に「see」を強制する仕掛けだったのかな?