「道の駅かでな」で、基地観察のベテランの麦藁帽のおじさんから、普天間基地の見える場所、嘉数高台公園を教わったので、急遽いま来た道をバックして宜野湾市嘉数へ。
ここは嘉手納を占領されて南部に撤退した日本軍が北から迫る米軍相手に高台から防衛戦を展開したところ。高台という高台は日本軍の大砲陣地だったそうだ。
さて嘉数高台公園の急階段を息せき切って上ると、その頂上にさらに4階建ての円塔が・・・。
この急階段を気合を入れて上ると、地元の人がすでに4,5人いた。

左は宜野湾、右端の芝生が普天間基地

普天間基地。戦闘ヘリの基地だ。この日は1機も姿を見せなかった。イラク戦争の時、普天間からヘリが消えた。ギャラクシーに積んでイラクに向かったのだ。ベトナムはともかく、イラクも「極東の範囲」なのか!?

基地で分断された宜野湾市の東側。基地が宜野湾市の中央を占め、市域を分断している。この丘陵も沖縄戦では日本軍の大砲陣地だった。斜面に見えるのは沖縄の特徴ある墓群。

嘉数高台公園の塔からみたこの日の宜野湾。 きれいだった。
返還問題で揺れる普天間基地の特徴は、嘉手納基地と違って、宜野湾市のど真ん中に、米軍(占領軍)によって突然作られた基地であることらしい。
しかも、事故の危険性の高い戦闘ヘリ100機以上の基地であること。沖縄国際大学の校舎にヘリが接触して墜落した事故では、米軍がロープを張って日本側を一切立ち入らせなかったことが問題になった。
犯罪率が高い海兵隊群の基地であることも嫌がられている。
基地面積は4.9K㎡で、嘉手納に隣接し、市域の25%を占めている。ここも航空写真地図で見るのが一番。
ここをクリックして。
沖縄の現状は悲しくも基地経済だ。
嘉手納基地の地主数8759人、基地従業員2750人、地代年239億円。
普天間の地代は61億円。
返還されてもPCB汚染などが放置されているので、畑にはならないようだ。
また、普天間が辺野古に移転して完全に海上基地になれば、雑草撮りなどの雑役はいらなくなるので、基地雇用はなくなる。
一体、全面返還を貫くのか、基地を認めるのか、島民の心は分裂しているようだ。
でも、だれがこんな事態を招いたのか、根本的な原因を忘れてはならない。
本土決戦の直前は明らかに本土のため捨石だった。
戦後は米軍の世界戦略と本土の基地縮小の代替だった。
「more」あり
米軍が沖縄本島中部の北谷(ちゃたん)、読谷(よみたん)から上陸したのは昭和20年4月1日。抵抗らしい抵抗もなかったので、米軍は「ピクニック」気分だったという。当時の日本軍司令部は首里城の地下に陣取っていた。ところが、この嘉数高台(第70高地)には、第62師団独立混成旅団が要塞を築き、4月8日の戦闘開始以来16日間にわたる米軍との激闘を繰り広げた。日本軍の戦死者6万4000名、米軍の戦死者2万6000名といわれている。
4月24日、嘉数高台が陥落すると日本軍司令部は首里城地下から南部に後退、最終的には糸満の摩文仁(まぶに)の丘に陣を敷いた。