田無警察(明治・大正期は甲州街道の府中宿にある府中警察の田無分署だった)を西側(橋場側)に進むと、しだいに街道筋でむかしは栄えた商店街の面影は薄れ、街道筋にある古くからある個人商店の感が強くなる。
橋場から先は(今回は撮らなかったが)幕末に「これより先七里人家なし」といわれた風景の面影をさらに感じるようになる。

この明治・大正初期の地図による業種別商店数の一覧はむかしの田舎の宿場町の構成をよく表している。
旅館に料理屋に糸まゆ仲買人に馬力屋に車屋にうどん・まんじゅう屋は多く、そばやは一軒しかない。
●何度も通っているのに「田無宿」という視点で街道筋を撮ったのは初めてだ。まちの面白そうなところをスナップするというのと視点を定めて撮るというのは違う。平凡な写真でも自分にとっては大変勉強になった。
●「武蔵国」は古代国家の領域を指す概念で、「武蔵野台地」は海進と河川によって削り取られて段丘を形成した地質的概念だが、「武蔵野」というのは本来は、関東ローム層(武蔵野台地では富士山の噴火灰)に覆われた武蔵野台地の中でも水利条件に乏しく、耕作不適地のため一面の原野だった武蔵野の不毛地帯をさす概念だったところ、明治になって国木田独歩がそこに里山と明るい疎林の美」を発見すると、この文学的イメージが一般化して主として多摩川沿いの河川段丘をさす言葉となった(独歩以前の江戸時代では耕作不適の萱・ススキの原野を指し、、日比谷も浜松町も武蔵野であった)。したがって明治以降の武蔵野とはどこかという区域を限定することは「イメージの世界」の問題であり、はなはだ漠然として時代と共に流動するので確たる区域を限定することは出来ない。
●田無は果たして武蔵野なのかというはじめに感じた素朴な疑問は、耕作不適地という意味ではかつてそうであったし、独歩の世界(武蔵境から国分寺までを逍遥して発見した風景の美の世界)とは違うような気がしても、それは人さまざまであるという漠然としたイメージの中の世界の違いというほかないようだ。