田無神社についで街道の中心だった総持寺にいってみた。
総持寺は明治政府の神仏分離令により、明治5年、西光寺から尉殿大権現が分離独立して、田無神社となると共に、西光寺、密蔵院、観音寺の三寺が合併して総持寺となった。
漫然と総持寺の前を素通りしていたときには気づかなかったが、今回「田無宿」という視点で眺めてみると変わったものが二三あった。
仁王門を潜って大提灯を裏から眺めると奉納者の「海老沢」の名に気付いた。この海老沢さんは田無宿で一軒きりの通称「タンス屋」と呼ばれた海老沢呉服店の末裔の海老沢だろうか。それとも戦後、平和観音を田無駅前に建立した歯科医師の海老沢だろうか。どちらも同じ海老沢だろうか。
仁王門の裏側には「広目天」と「多聞天」がある。これは「広目天」の方
この「広目天」のすぐ脇に、無縁農家菩提の大きな碑がある。これは一体どんな歴史を秘めているのだろうか。
大正6年、田無柳沢の宿屋「田丸屋」から総持寺に遷座したという成田山新勝時の「滝の不動尊」。
どんないきさつがあるのだろうか。新勝寺も田無山総持寺も同じ真言宗智山派ではあるが。
田丸やさんは現在も酒類販売店として、田無神社はずれの青梅街道の角に残っている。
古いオフダの小炊き上げ用の結界。
山門を出ると参道脇に「平和観音」の立像を見つけた。脇にある由緒書きによると、1945年4月、B29の爆撃により田無駅前で50数名が爆死し、8月15日に至るまで田無全域で百数十名の命が犠牲となったことを悼み、歯科医師海老沢太一氏が爆心地に観音像の建立を呼びかけ、下田武主氏が所有地を無償提供され、駅前の爆心地にこの「平和観音」を1957年4月建立したが、駅前再開発により、1992年「アスタビル」建設のため移転を余儀なくされ、この地に移転したと書かれている。
駅前広場には、この「平和観音」の代わりに、「田無平和の日」条例制定祈念碑が建てられたという。
なーんかしっくりしない話だ。
下田氏が再開発で「権利(資産)」を受け取る代わりに「平和観音」の撤去に応じたのだろうか。それとも「観音」は宗教施設なので、駅前広場(公有地)に存置するわけには行かないという理屈だったのだろうか。