田無宿の面影を求めて 2 田無神社と下田半兵衛
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●田無神社は明治政府の神仏分離令により、明治5年に「別当寺」の西光寺(現総持寺)から分離独立した神社で、もとは「尉殿大権現」(じょうどのだいごんげん)といった。

別当寺とは、寺院が神社の管理権を掌握する場合の呼称で、神仏分離令が発せられる以前の日本では各地に見られた神仏習合思想に基づく寺院神社一体形態で、神社では別当寺の社僧による読経、加持祈祷が行われた。(別当寺、神護寺、宮寺などを総称して「神宮寺」というそうだ)



聖徳太子が仏教を導入し、これを国造りの基本原理としたとき、無辜の民は迷った。
いままで信仰してきた氏神様や神様と新しい仏教の仏様の関係はどうなのかと。


この関係は、権力上位の上層階級では問題なく仏教優位だったが、一般土民階級では頭が混乱するので仏教は浸透せず、しばらくは氏神信仰は廃れることはなかった。

しかし、天地垂迹説が現われ、この矛盾を土民の自然崇拝感情に逆らうことなく解決した。
つまり仏は世界に普く返照するが、土民にはわかりやすく、いままで信仰してきた「神」という形で現われているだけなのだと。
土民の精神構造にはなんの革命も強いるものでもなく、こうして、神仏習合は日本人の精神構造になんの問題も惹き起さず、平穏理に江戸末期までやってきたのだ。


ところが、明治政府の神仏分離令によって突如、尉殿大権現が西光寺から独立され、田無神社となったとき、神社に掲げられていた「尉殿大権現」の扁額が、これは仏の位を表すものだとして問題になり、取り外されたので、別当寺であった西光寺(現田無山総持寺)が保管しているという。この経緯を表した西東京市教育委員会の立て札が神社内に建っている。


●西光寺(総持寺)も田無神社も設立改修の経費は田無の名主であった下田半兵衛が負担したものである。下田家(代々半兵衛を襲名した)(総持寺は明治5年に田無神社が分離独立した折、西光寺、密蔵院、観音寺の三寺が合併して総持寺となった)


●話を田無神社(尉殿大権現)に戻すと、江戸末期に下田半兵衛富宅(とみいえ)は医師賀陽玄順(玄節の子)の助言を得て江戸の神田まで足を運び、安政5年(1858)に名工の誉れの高かった嶋村俊表に痛みが激しかった尉殿大権現(現・田無神社)本殿の再建を依頼した。
俊表は養老・福祉の精神に満ちた半兵衛富宅の人柄に惚れこみ、この大仕事をわずか200両で請け負ったといわれる。 俊表の最高傑作といわれる現在の本殿は安政6年(1859)(万延元年(1860)との説もあり)に完成した。大工は鈴木内匠が務めた。

●田無神社本殿が完成した翌年の万延元年(1860)7月7日に下田半兵衛富宅は亡くなった。

●明治5年以後、分離独立した田無神社の宮司には医師賀陽家が代々引き継いでいる。最初に田無に定住したのは岡山藩医だったといわれる賀陽玄節。以下玄順→玄斉→清。

●総持寺の総総代は現在も下田家。(田無の近世史は名主下田家なしに語れないようだ)

●神社内に大鵬の碑がある。これは平成12年(2000年)、大鵬が寄贈した土俵を自ら「大鵬」と号したことを記念して翌年宮司賀陽清が建てたもの。
大鵬は引退後の平成5年(1993年)に五穀豊穣(ほうじょう)を祈念して土俵開いた。平成11年(1999年)には田無神社崇敬会初代会長に就任。その後、名誉会長を務めた。
by aizak3 | 2013-12-31 13:24
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