田無用水跡地からの風景 1
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青梅街道に沿って南北二本ある田無用水跡地(現在遊歩道)北側の用水跡地から見た風景の断片です。
青梅街道の「田無宿」も「田無用水」も往時の田無を支えてきたものですが、いまではどんどん往時の風景は失われています。


田無用水は元禄9年(1696)に開通し、田無宿の外れの「橋場」で南北二本の用水に分かれ、耕作不適地であった田無村の発展に寄与した用水路でったことは前に記したが、このとき田無用水は玉川上水からの分水した小川用水(現小平市)からさらに分水したものと記した。
しかし、これは小平市の調査により誤りであることがわかったので訂正します。

田無用水は、中島町の西端の玉川上水から分水し、立川通りの小川橋を経由して、玉川上水の北側を平行して流下する新堀用水が、喜平町の関東管区警察学校南側付近で田無用水と鈴木用水に分水されたもので、田無用水は鈴木小学校北付近を経由して花小金井駅東側方面へ流下して、「橋場」に至り、南北二本に分かれる用水路でした。


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用水その1(西側)
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用水その2(東側)
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青梅街道は1603年(慶長8年)、江戸城築城のために、青梅の成木村で採れる石灰を運搬する道路として、大久保長安の指揮の下に整備されたとされているが「田無宿」の成立期は不明。


田無村の名主下田半兵衛は『公用分例略記』によれば、下田半兵衛家(屋号ホンケ)は慶長元年(1596)に田無村の北谷戸から青梅街道沿いへ出てきたという。
そのころ、青梅街道の「田無宿(本陣のない伝馬宿)」の原型が出来始めたのだろうか。
ちなみに田無宿は当初は「柳沢宿」といわれ、文献上はこちらの方が多用されているようだ。


江戸から青梅街道を下ってくると、田無宿の入り口が柳沢(いまの田無本町1丁目の辺り)で、柳沢に入ると街道の左がふじや右が柳屋、ついで角屋、田丸屋という旅籠になり、所沢街道(秩父道)を分岐していた。旅籠は旅商人の宿で、べつに木賃宿もあったが、田無宿は基本的には旅人のための宿場ではなかった。
田無宿は柳沢から橋場まで、およそ1.5kmにおよぶ商店が形成されたが、「宿」としては基本的には伝馬駅であった。一方、街道沿いの商店は、町といえば中野と田無と府中と青梅しかないといわれた頃なので相当広範囲の近傍農家からの買い物客を集めていたようだ。
役人が田無に宿泊するときは下田本家が利用された。


いずれにしろ、田無用水が引かれるまでは、青梅街道沿いには呑み水がなかったので、青梅街道に出てきた名主の下田家も「谷戸」から移転してきた田無神社も毎日「谷戸」まで水を汲みに行っていたという。
(青梅街道をちょっと南に下ったところには「石神井川」が流れているが、田無市中央図書館による明治末期から大正初期の青梅街道再現地図には「あくすい(悪水)」と書かれており、飲用はおろか農業用水にも適さない下水路であったようだ。)


ちなみに、現在も田無神社境内の一角に田無用水の碑が建っている。

なお、田無用水は練馬の田柄川が水量不足のため総持寺付近から分水されたほか、練馬の関村、石神井村にも分水されている。(このため、田無は関村などからたびたび「水訴訟」が起こされている)
by aizak3 | 2013-12-19 14:50
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