へーぇ、白洋舎の洗濯工場がこんなところにあるとは知らなかった。
でもただそれだけ。
全国展開している白洋舎ならどこにあってもおかしくないと思いながらも調べてみると、洗濯工場として大規模なのは東京都内では品川・大井工場と葛飾・青戸とここ武蔵野工場だけらしい。
でも、武蔵野ってどこのこと?そっちが気になった。
ここ田無の外れは、わたしには「北多摩」で、わたしの中で「武蔵野」って云うと調布や小金井の野川や府中や国分寺涯線が思い浮んでくるが、ここが「武蔵野」っていうイメージはあまりないんだけどな。。
で、武蔵野の出処の古代「武蔵国」の領域を示す地図をまず探した。
武蔵国は律令制大和政権によって府中に国衙が置かれ、その遺跡も最近大国魂神社のそばで発見され発掘調査が進んでいるようだが、7世紀頃无邪志(ムサシ)国造(胸刺、牟邪志、无謝志とも)の領域と知々夫(チチブ)国造の領域を合し成立したとされている。
考古学上では武蔵国はかつて毛野(ケノ)国(群馬県・栃木県)地域と一体でありその後7世紀にヤマト王権が総(フサ)国からこの地域に進出して勢力下においた地域だとするのが定説らしい。
明治維新時の廃藩置県では行政区域が細分化され、武蔵国は大きく分けて東京都、埼玉県及び神奈川県(川崎市と横浜市の大部分)に分割された。
(このことを逆に言えば、武蔵国は現在の東京都+埼玉県(全部)+神奈川県 川崎市(橘樹郡)+横浜市(都筑郡)にまたがる地域を占めた旧国名である)。
ところで、「武蔵国」の領域がわかったからといって「武蔵野」が指すイメージがわかったわけではない。
「武蔵野」とはどんなイメージで、どの辺りを指す言葉なのか。これを調べてみる気になった。
武蔵野は古くは万葉集にも登場するそうだが、「武蔵野」のイメージを中世人に定着させたのは、11世紀に書かれた『更級日記』(菅原孝標女)が最初で、いまの港区の三田四丁目辺りが、「蘆(あし)・荻のみ高く生ひて、馬に乗りて弓もたる末(馬に乗った男の弓の下半分の先)見えぬまで高く生ひ茂りて、中をわけ行くに、竹芝といふ寺(今の済海寺あたり)あり」という箇所が有名なのだそうで、更級日記は読んだことがなくてもこの箇所はどこかで読んだことがある方は多いだろう。
ここでの「武蔵野」は見渡す限り丈高い茫茫たる草の原のイメージが強調されている。
また14世紀に書かれた後深草院二条の『とはずかたり』でも浅草の葦茫茫の原の「 野の中をはるばると分けゆくに、萩・女郎花・荻・芒よりほかはまたまじるものもなく、これが高さは馬に乗りたる男の見えぬほどなれば、おしはかるべし。三日にや分けゆけども尽きもせず。ちと傍へ行く道にこそ宿などもあれ、はるばるひととほりは来し方行く末野原なり。観音堂はちとひき上りて、それも木などはなき原の中におはしますに、まめやかに草の原より出づる月影と思ひ出(い)づれば、今宵は十五夜なりけり」と木もない原の野を強調している。
この武蔵野のイメージが中世では一般的で、武蔵野は林ではなく、どこまでも続く丈高い草原でそこから月が出て、そこにまた月が沈むという東夷の異郷というイメージであったらしい。
「武蔵野」のイメージを最初に定着させたこの場所は、更級日記では現在の港区三田で、「とはずかたり」では浅草である。つまり、「武蔵野」とは現在の東京都心部なのである。
江戸時代でも、家康入府の頃(開幕前)は、まだ太田道灌の築いた江戸城前は日比谷入り江と呼ばれる海で、いたるところに葦が生い茂る葦原だったから、この中世のイメージは変わらず保持され続けたらしい。家康の入府以来延々と続けられた江戸造成の大土木工事による都市づくりの成果も、文化文明観に属する「武蔵野」の「イメージ」は、上方からの「お下がり」を重視する上方尊重の文人・画家の中ではゆるがず、武蔵野のイメージは中世のままだったようだ。
(当初の江戸には醤油もなく、衣料もなく上物は常に上方からの「お下がり」だった。江戸の地産品は「下らぬもの」だった)。
(話が飛ぶが、吉原も当初は現人形町に設置され、文字通りの葭原の地を開発したものだったという)。
ところが、明治に入ると自然主義文学観の影響の下で、東京西郊の渋谷村(当時)に居を構えた国木田独歩が人工の手が入った里山の雑木林と谷戸の田園と草原が入り混じった陽に輝く東京西郊の風景に新しい詩趣を発見し、北海道の原野でも那須野の原でもない独自の『武蔵野』の美を発見してイメージの転換を図った。
つづいて絵の世界でも、大正の代々木村に住んでいた岸田劉生が西郊の農村風景に新しい美を発見して『春』を描いた。
こうして「武蔵野」は丈高い草の原から、陽の射し込む明るい雑木林と田園の風景へのイメージ転換がしだいに文人に定着していったらしい。
新しい「武蔵野」を発見した二人が住んでいた場所が旧江戸市中ではなく当時の東京の西部郊外だったということも重要だろう。新しい「武蔵野」のイメージは、東京西部に移ったのである。
(俳句の改革者だった子規は下谷の根岸に住んで、「根岸の里の侘び住まい」をつければ、なんでも俳句になることを発見?したらしいが(いや、これは落語での話だった。失礼)どうして新しい「武蔵野」を発見しなかったのだろう。武蔵野徘徊より古くからの下町の「侘び住まい」の方が性に合ったのか。不思議だ)
旧朱引き外の東京郊外の宅地化(同時にスプロール化を起こした)は、畑→林→田圃の順で進んだといわれるが、昭和に入ってもまだオリンピック前までは、世田谷は広大な田畑を残す半農村であったし、吉祥寺も一面芋畑だった。この東京西郊の風景は、震災復興区画整理が行われて、早くから市街化が進んでインフラ整備が進んだ東京東部と大きく異なる点である。
戦後、復員した大岡昇平は『武蔵野夫人』で、国分寺涯線沿いで、涯線であるために開発から取り残された場所に独歩の「武蔵野」を発見した。この意味では独歩の林と谷戸の武蔵野を引き継いだだけで、新しい武蔵野のイメージではない。しかし、大岡の「武蔵野夫人」にはバター味が付加された。このバタ臭さが戦後の「武蔵野」のイメージで、世田谷のサザエさんを生んだ。
もはや、「武蔵野」は至るところにあるのではなく、「取り残された場所」か行政の手で「保護された場所」でしか存在できなくなってきたのだ。
こうして武蔵野のイメージは東京東部や北部とは切り離され、中央線西側の多摩川沿いの雑木林や田園の残る風景へと転換していったのではないか。
(明治人の独歩の描く「武蔵野」の範囲はかなり広範であるが、東京の東半分は異論があれば範囲に含めなくてもいいとはやくも言っているのだそうだ。確かめてはいないが。)
対比として『江戸名所図会』(江戸後期?)での武蔵野を挙げると、武蔵野は「南は多摩川、北は荒川、東は隅田川、西は大岳(だいがく)・秩父根(青梅・秩父間の山々)を限りとして、多摩、橘樹(現川崎市)、都筑(現横浜市)、荏原、豊島、足立、新座(現埼玉県)、高麗(埼玉)、比企(埼玉)、入間(埼玉)等すべて十郡に跨る」と解説しているそうでかなりの広範囲だし、これじゃ武蔵国から秩父の北西部を除いただけだし、地理的自然環境に依存しているだけだ)
つまり「武蔵野イメージ」は時代によって変遷し、したがってそれを代表する地域も変遷してきたらしいのである。(茫々たる葦の原→雑木林と谷戸の田園→涯線の林→宅地化から取り残された場所・保護された場所+バタ臭さ)
今日ではまあわたしの感覚的には、世田谷・調布・府中・国分寺ってとこか。
それでは、田無はどうか?
江戸時代なら間違いなく「武蔵野」であるが、さあ、どうかな。
それとも、わたしの「武蔵野イメージ」は狭すぎるのか?
田無にはバタ臭さはない。