秩父の小鹿野河原沢という山村の集落に、4月3日には河原で集落のこどもたちが雛人形を飾り、河原の石で竈を作って粥をたいて食べるという可愛らしい「おひなげえ」という祭行事があるというので、秩父に入れ込んでいた頃撮影にいったことがある..山に囲まれて平地のない集落の自然環境をみて「おひな粥」の意味がひとりでに理解されるとともに、貧しい山村に生きる人々が蚕ブームに巻き込まれて、やがて生糸暴落を端緒として明治中期に「秩父騒動(秩父困民党一揆)」が惹き起された歴史も自然に思い出された。
ところで、この写真の方は「橋場」付近の農家の風景であるが、明治大正期の「田無宿」を知る田無の古老たちを集めて聞き書きした田無市中央図書館が纏めた「田無むかしばなし」読んでいて驚いたことがある。
なんと明治・大正初期の田無では稗、粟が主食で米なんか喰っていなかったと古老が云っているのだ。ご馳走はうどん。うどんはうどん屋で食う。各家ではうどんは食えなかったようだ。
田無は江戸前期までは「水逃げの里」と呼ばれ安定した水が確保できなかった。
(立川の砂川村も逃げ水川であるが、時に氾濫する。砂川村は米軍の立川基地拡張計画によって反対運動が起こり「砂川闘争」で一躍有名になった村)。
田無用水が引かれたのは玉川上水(水源は多摩川の羽村堰)から分水した「小川用水」(小平市小川村)が江戸中期にまず引かれ、そこからようやく「田無用水」が青梅街道の南北に二本引かれたのであるが、それでも米麦は明治後期はまだ日常の主食にはなりえなかったのだろうか。
多摩ではどこでも、現在でも蕎麦ではなく饂飩が名物なのも道理だ。
農家は手押し車を押して、片道6時間かけて東京の京橋まで菜っ葉や大根を売りにいき、帰りには下肥を樽に積んで帰ってきたという(「田無むかしばなし」)。
京橋まで行ったのは京橋の下肥がよかったからだという。(果たしてそれだけの理由だったかどうか古老の話(記憶)というのは少々眉唾の部分がある?)
(江戸時代は江戸の糞尿は栄養に富み「商品」であった。糞尿はタダではなくかなりの値がつき近郊の葛飾、豊玉の農村から下肥の値下げ嘆願が町奉行に2回も出されている。
ところが、明治になると近郊農村人口を東京が吸収するようになり、金を払って下肥を買い江戸から搬出していた農村の需要が絶え、東京府・東京市の公共の仕事となった。この話は資料あり)
(田無のむかしばなしは、明治中期・大正初期の話であるから、もう糞尿が商品ではなくなった時代の話であるが、それでも京橋までいって下肥をなにがしかの野菜を置いてたまにはもらってきたことがあるという話しを古老が誇張して話したものだろう。)
(西武新宿線が開通したとき、田無駅には近所の農家に配る糞尿のホッパーがあったという。
これに尾ひれが付いて西武線が小豆色の車体をしているのは下肥が染み付いたためだとか、玉電が黄色いのは下肥を世田谷に運んだためだとか昔は云われていた)