いままで何回見ても一向に撮ってみる気にならなかった上野公園中央広場の噴水池が、ある日(博物館に「地中海展」を見に行った日)、突然ここが寛永寺中堂だったことが思い出されると、急に一枚撮っておくべき風景に思えた。
江戸城を明け渡して寛永寺で謹慎蟄居していた慶喜に対し、官軍急進派の板垣退助はぜひとも慶喜の首を獲らなければ徳川幕藩体制は終らないと主張していたところ、一矢も酬いず江戸城を明け渡しては「武士の面目」が立たずと考える集団が「彰義隊」を結成し、寛永寺宿坊を本拠地としたため戊辰戦争(ここでは上野戦争)が始った。
寛永寺の上野の山下の表門(黒門)をめぐる西郷軍と彰義隊の攻防は一進一退で、さしもの勇猛をもって鳴る西郷軍(薩摩軍)の損害は多大であったが、本郷の加賀藩邸(現東大)に陣取る佐賀藩(板垣軍)の最新式アームストロング砲が不忍の池を飛び越えて寛永寺の中堂を炎上させるに及び、彰義隊は谷中口から敗走することになった。
一番損害のない団子坂上に陣取って、これを指揮したのが現在靖国神社の大鳥居で上野の西郷隆盛像を睨んでいるとも言われる大村益次郎で、長州の大村軍は、団子坂下の田圃で足をとられ上野の山を巡る攻防には実際にはほとんど参加しなかった。
大村軍の「功績」は会津藩の援軍が駆けつけたかのように装った「偽会津軍」の切り込み隊を考えたことで、やすやす寛永寺内に入り込むと裏側から彰義隊を撹乱した。
本来の武士ではない「冷徹」大村益次郎の卑劣な作戦だった。
上野広小路の松坂屋を本陣として、その二階に車輪付き大砲(野砲)を据えつけた西郷軍の大砲は旧式で、広小路から山上の寛永寺には届かず、号砲一発はただ単に戦の開始を知らせる役目に終った。
てな、ことを思い出しながら、上野公園の中央広場を寛永寺本坊(現国立東京博物館)側から撮ってみたのがこの二枚である。
そう思って撮ったのと単に風景として撮ったのとは明らかに違う。
といいたいところだが、
説明がなければ何にも違わない気もするし、多少視点が違ったような気もするし、
プロの写真家には失礼な言い草だが、開き直れば写真は所詮誰が撮っても同じになるような気もするし。。。
(つまり、写真ってなんだ??)
(これはかなり考察するに値する問題なんだ。なんたって、これは「オレはプロだ」なんていって純情なカメラ買いたての人をだまして、露出だの「構図」だの云ってゼニをなにがしかむしりとって生業としているヤツらへの挑戦でもある。もうオレも死に際だから、臆せずいう。素人のカメラ趣味の人をだまして「ああだこうだ」云っているお前らも死ね。
クダラネー東北震災復興支援チャリティ写真展なんて企画でクダナネー写真を純真な写真愛好者に売りつけて、またいくらか儲けようとして恥じることない「写真業界」の「大家」に言ってんだよ)