高橋商店街から見た森下1丁目交差点。門仲の魚三がある。
ここは、たかばし商店街なのに「たかはし」の纏いのような看板があるがどうして?
商店街を振り返ると誰も歩いていない。暑いからだけか?
高橋商店街を「のらくろ通り」と名乗ることにしたようだ。でも「のらくろ」じゃ若い人は知らないんじゃない?この二人には判るだろうが。。。
この隙間は「深川小学校」の正門。深川という町名は清澄庭園の南にある仙台掘の南、首都高9号線までの「明治小学校」を含む一画だけだ。ここの町名「高橋」もむかしはもっと広い町名だったのに、いまはこの商店街がある一画だけの町名になってしまった。これだけは不思議だ。
「のらくろ」だけが商店通りにぶら下っている。
商店街の終り、森下3丁目交差点。
高橋(たかばし)とは小名木川に架かる橋は、その就航の妨げにならないように、すべて高い橋で、むかしはまず橋詰めで階段を登り、それから橋を渡るといういまの歩道橋のような橋の構造になっていたことに由来する地名のようだ。
高橋はむかしは1~3丁目があったが、2~3丁目が、森下3~5丁目となり、いまは高橋1丁目のみが「高橋」という町名で残っている。
高橋は江戸初期に開鑿されて、関東一円を結ぶ江戸の物流の動脈となった小名木川の拠点として栄え、明治以降も蒸気船の停留場となるなど繁栄したが、物流が水運から陸上交通(鉄道・道路)に移るに連れ次第に衰退した。
たかばしは食い物としては「どじょう鍋」で有名だったが、国際観光スポットに成長したアサクサのような観光性はない業務・商業地地だったので、もはやドジョウやも廃れた。というより、そもそもドジョウそのものがもはや貴重品で安易に手に入らなくなった。
そこで、森下3丁目にある「のらくろ記念館」を援用した「のらくろ通り」による活性化なのだが、いかにせん。。。
しっかりした街路構成のまちが酷暑の西日に照らされている。
繁栄の中で「わび・さび」を求めていた芭蕉の理想の現実化がこれなのだろうか。
深川のたかばしとほき年賀かな(久保田万太郎)
湯豆腐やいのちのはてのうすあかり(久保田万太郎)
以下は『東京知ったかぶり』より引用する
■高橋汽船原発場
高橋1番3号の河岸の辺りに、明治から昭和初期頃まで汽船の待合所と発着所があり賑わったところだ。
関東大震災後の区画整理により小名木川に削られ、当時よりは土地幅が狭くなった。
汽船原発場は、高橋~行徳間の汽船の起点で、ここは各方面の旅客・貨物の乗降積載の重要な場所だった。
また両国と蠣殻町の原発場から出向する汽船の寄航場として栄えた。
そのほかの小名木川筋の寄航場としては、富川町(新高橋)、大島、草屋(東砂2丁目13番)の3ヶ所があった。
高橋の原発場を管理していた内国通運株式会社深川支店は、明治32年頃には汽船20隻余、和船30余艘を所有し、新高橋付近の堀を船溜としていた。
内国通運は、現在の日本通運株式会社の前身で、江戸定飛脚問屋に由来し、明治以降は運送業を営み、利根川を始め、関東の水脈を利用して陸上輸送の発達しない時代から活躍し続けてきた。
明治10年には、両輪船の通運丸が小名木川に就航した。
この船は「ポンポン」と煙の輪を吐いて走ったので「ポンポン蒸気」と呼ばれて、汽車のことを〝岡蒸気〟といったのに対して〝川蒸気〟とも呼ばれた。
小名木川は、川蒸気のほか、荷足船などが数多く往復し、船の交通渋滞がしばしば起こった。
昭和になると陸上輸送が盛んになり、水運は減少してしまった。
■どじょう伊せ喜 閉店
高橋2番にある明治20年創業のどじょう料理専門店。
江戸時代の創業、明治20年店を構える。
江戸の町家のような佇まいに一歩足を踏み入れると、時を止めたような空気が古き良き江戸情緒を髣髴とさせる。ゆったりと食事が楽しめるようにと、掘り炬燵式の座席を用意してる。
丸鍋・骨抜き鍋・柳川鍋、蒲焼・舞子丼・蒲焼丼・うなぎ丼・故意のあらい・なまずなべ(冬のみ)がメニューだが、田舎者東京人諸君、江戸の味を賞味してみな!
平成23年閉店、建て替えのためとも、跡継ぎがいないからとも。