前回は深川という地名発祥の地として、「森下」の表通りを除く街並みを紹介したので、今回は小名木川に面した「高橋」を紹介する。
[森下]でそうしたように表通りの商店街を除く街並みである。
森下3丁目の掲示板が「高森町会」になっているのは、ここがもと高橋(たかばし)であった名残りだろうか。
ところで、「深川」といえば一般的には永代通りに面した門前仲町と水掛祭りで有名な富岡八幡宮を思い浮かべる人が一般的だろう。
本当に「深川神明宮」の方が創建が古いのだろうか。気なったのでついでに調べてみた。
ikipediaによれば、深川の富岡八幡は、建久年間に源頼朝が勧請した富岡八幡宮(横浜市金沢区富岡)の直系分社である。
大相撲発祥の地でもあるそうだ。氏子区域は、江東区の西部と中央区の日本橋箱崎町および新川にまたがり、非常に広域である。
創建は、1624年(寛永4年)、長盛法師が神託により砂州であった当地を干拓し、永代島に八幡宮を建立したことが始まりとされる。
そうならば、「深川神明宮」の方が古いことになる。
「深川神明宮」の御由緒によれば家康が八郎衛門に地名を問うたのは(門前の碑文には書いてないが)徳川氏の関東入国から間もない慶長元年(1596)のことだったとされている。
しかし、横浜市の富岡八幡宮の八幡宮明細帳(1893年(明治26年))では、江戸時代初期に行なわれた深川 (江東区)の干拓が難航したため、波除八幡の異名をもつ富岡八幡宮を分霊したとの記録が残っている。
徳川家康が江戸幕府を開いたのは慶長8年(1603)。
江戸時代とは慶長の次の元和(1615年)元年からをいうようだから、微妙な違いながら、慶長元年(1596年)に創建された「深川神明宮」のほうが古いことになるのかな。
規模ということになると富岡八幡は創建当時は「永代八幡」と呼ばれ、砂州の埋め立てにより60,508坪の社有地があった。
また江戸「勧進相撲」の発祥の地としても知られ、しばしば境内で本場所も開催されたという。
特に明治維新以降、幕府や大名家の加護を失った相撲界が、神道との関わりを強調することで生き残りをはかったためもあり、当社と相撲との結びつきが強まったそうだ。
現在も新横綱誕生のおりの奉納土俵入りなどの式典が執り行われるそうだ。
祭礼の規模では、富岡八幡の方がたしかに上位だ。
現在の町の繁栄度でも富岡八幡の方がはるかに上で、「深川」発祥の地の森下・高橋の方が劣る。
その原因は水運が寂れてしまったからだし、富岡八幡は永代橋(永代通りの隅田川に架かる橋)で東京駅に直結しているのに、森下は永代上流の新大橋で隅田川を渡り、渡った先が日本橋人形町で、永代通りで東京駅にでられる富岡八幡より分が悪いということか。
★横浜市の富岡八幡は
富岡八幡宮(とみおかはちまんぐう)は、横浜市金沢区にある神社である。旧社格は村社。
別名「波除八幡」。
建久年間(1190年~1199年)源頼朝が摂津国難波の蛭子神(恵比寿神。西宮神社の末社のものと言われる。)を勧請して創建、安貞年間(1227年~1229年)に八幡神が合祀されたという。
八幡宮の山が「応長の大津波」(1311年)から富岡地区を守ったことから「波除八幡」の別名を持つ。