深川神明宮のある森下町の街並みである。
地名としての深川は、深川区という区名にまでなっていたのに、現在「深川」を名乗る町名は、清澄庭園の南側に位置する仙台掘りの南側の明治小学校(江東区立)を含む小さな一角に過ぎない。
しかし、「深川」は、区名になったので清澄通りと葛西橋通りの交差点名には「深川一丁目交差点」が残っているし、「深川一郵便局」とか、その他「旧深川区」内の広域に亘って「深川第〇小・中学校」とか「深川保健所」とか「深川警察署」とかに「深川」の地名は残っている。
一方、神明宮のある「森下」は1~5丁目のあるかなり大きな町名なのだが、小さな区域しかない高橋と一緒に、森下・高橋界隈と語られることが多いようだ。
現に、高橋が小さいためかなのかどうか、高橋を含む町会は「高森町会」という。
「森下・高森」町会ではなくて「高森町会」であるところが面白い。
(むかしは高橋といっていたところが森下に改められたところが多いらしい。その高橋もむかしは「富川町」といったらしい。どうして、そうなったのかは調べていなが、ミステリーだ。「高橋3丁目」がいまの「森下3丁目」だというし。なにがあったのか、なにかあるぞ、きっと
森下・高橋通りのメーン・ストリートの商店街もちょっと外れたところに「田川水泡記念館」の「のらくろ」(野良犬のくろ」が軍隊に入って活躍する戦時中の少年向け漫画の主人公)にちなんで、現在では「のらくろ通り」というが、森下一丁目交差点に掲げられている大きな纏い(まとい)のような看板(所在地は森下1丁目)は「たかばし」なのだ。
商店街通りの両側は小名木川から深川小学校まで「高橋」町だから、当り前といえば当り前だが、交差点名は「森下1丁目」だというのはなぜか。
むかしは「高橋通り商店街」といっていたに違いない。
もともと、森下・高橋は水運による物流の動脈の地で、地図で見れば一目瞭然。
隅田川に通じる小名木川(江戸時代からの運河)に面する森下・高橋は、道路・鉄道運送が発達する前では、水運で隅田川を挟んで蔵前、日本橋と直結していたから、江戸時代以来、発達していた小名木川を利用すれば、利根川、旧江戸川、荒川、中川、霞ヶ浦、古河、などを利用した関東一円の物流が江戸・東京に通じる大動脈であった小名木川の隅田川口のまちとして物流のの拠点となっていたのである。
小名木川の水運が盛んだった頃には、、江戸時代には江戸城築城のために当時の隅田川河口から大手町まで開鑿された江戸初期からの「道三掘り」に隅田川を横断して直結するとともに、日本橋川にも直結していたから、明治時代以降は船運は蒸気船に変わって森下・高橋界隈には水運会社が建ちならんだという。(小名木川に面した高橋にはむかしは定期船の蒸気船の停留所もあったという)
荒川と隅田川を繋ぐ小名木川にはいまでも扇橋閘門という水位調整の閘門があり、いまでも就航河川だが、水運から道路交通に変わったいまでは就航する船舶はほとんどない。(現在では荒川(大規模に改修された荒川放水路)には通じていない。行き止まりの水路)
そもそも森下・高橋界隈は小名木川の水運に依存したまちで、森下高橋が寂れ行く運命も小名木川の水運が寂れたことに遠因がある。
隅田川沿いの町である森下は、JRの至近駅は両国でかなりの距離があるが、昭和40年代までは都電は三つの系統が走っていた。
都電が走っていた時代には、森下には、
水天宮から清洲橋を渡ってくる都電36系統(築地・茅場町・水天宮・森下町・住吉2丁目・錦糸町あった)があり、
森下から都心部に出るには、都電9系統(渋谷・青山1丁目・赤坂見附・三宅坂・日比谷公園・築地・茅場町・浜町・森下町)があった。
また、JRに乗るには、都電23系統(月島から門前仲町・森下・東両国・本所吾妻橋・福神橋)があった。
だが、都電が撤去されたいまでは、この地の交通は地下鉄とバスに頼っている。
神明宮の北250mあたりの森下駅には都営新宿線と都営大江戸線の両駅がある。
また、南の300m位には都営大江戸線の清澄白河駅と東京メトロ(旧営団)半蔵門線の清澄白河駅がある。しかし、さしたる業務拠点ではないので、人口吸収力はないようだ。
ところで、森下・高橋界隈はつい最近までは「さくら鍋」と「どじょう」というまあ、B級グルメでそれなり有名だったが、商店街はご多分に漏れずだんだん寂れいくという印象はいなめない。
どうしてそうなるのか、それでいいのかは、地域住民と政治家が答える問題だ。
「MORE」に深川森下の位置図掲載した。江戸時代の武家地・町屋の配置図も。


この江戸切絵図は安政2年出版(1855年)のもの。
芭蕉庵、現常盤、高橋、森下地域では江戸時代では武家屋敷(白地部分)と下町町屋の占める面積はは半々くらいだったようだ。