北極振動による異常な熱暑の続く中、気を取り戻して、江戸・東京以来の下町の代表的地名の「深川」発祥の地を探訪してみた。
去年も「猛暑」だった気がするが、昨年の自分のブログを見てみると、それなりに「外」に出ている。
ことしは6月末くらいから続く「長期熱波」で身体の耐用限界を超えているのか?外を歩く気がしない。
まあ、そんなことより「深川」中の「深川」、深川発祥の地はここだった。
江東区森下1丁目の深川神明宮には「ふかがわ」という地名の由来を示す大きな碑が建っている。
碑文によれば、徳川家康の入府以前に、深川八郎右衛門という人とその一族が、このあたり一面の葦原を開拓してこの神明宮を建て住していたが、家康が入府巡視の折(幕府か帷幕以前の豊臣時代のことだ)、八郎右衛門にここはなんというところだと訊ねたところ、八郎衛門はいまだ住む人も少なく地名はございませんと答えたので、ならばお前の姓を地名とせよと命じたので、この地は「深川」となり、この神明宮が深川発祥の地となったのであると書いてある。
八郎右衛門は姓を持つ地侍だったのだろうか。碑文には四百余年前のことだと書いてあるだけで、なんだかわかったようでわからない地名発祥の由来と神社発祥の由来だが、「深川」という地名は明治11年の東京府下15区制、東京市の35区制を経て戦後の東京都23区制の発足まで、ずっと「深川区」という「区名」になって残った。
深川が人の姓名から発した地名だというなら、内藤新宿(内藤は高遠藩主)を上回る大きな地名になったわけだ。
さて、ここから歩いてすぐそばの「芭蕉稲荷」に、元禄時代の「芭蕉庵」があったそうで、その跡地は後に武家屋敷となったので「芭蕉庵」は消滅したが、大正の関東大震災の津波に洗われた跡地から、芭蕉の愛好した石像の蛙が発見されたので、有志により「芭蕉稲荷社」が建立された(常盤1丁目地内)。
しかし、同所が狭隘であるので、そこより北方の地に旧跡を移し新たに建設されたのが江東区立「芭蕉記念館」(常盤1丁目地内)なのだそうだ。
したがって、本来の芭蕉庵があった芭蕉稲荷には現在さしたるものはないが、蛙の置石は多数あるとのこと。
今日UPした写真からはちょっと外れるが、この地では松尾芭蕉が「芭蕉庵」に居を構え、ここから「奥の細道」に旅立ったことが自慢なのだから、ここで脱線して芭蕉の出立までの経緯について触れておくことは仕方だない。
一般的には芭蕉は元禄2年(1689年)5月16日、芭蕉庵(現「芭蕉稲荷」)の地から東北みちのくの旅「奥の細道」に旅立つたように語られることが多いが、実際は紀行文序文にあるように、出発に当たって居をまず芭蕉庵(現芭蕉稲荷)から一時、仙台掘りの畔にあった弟子(スポンサー)の杉山杉風の「採荼庵」に移して「多病心もとなしと弥生末つ方まで引とゞめ」られて一月あまりを過ごしたのち、同所から旅立ったのである。
芭蕉庵を出て人に譲るに当たっては「はるけき旅の空思ひやるにも、いさゝかも心にさはらんものむつかしければ、日比住ける庵を相知れる人(杉風のこと)に譲りて出でぬ。この人なむ、妻を具し、娘・孫など持てる人なりければ、
「草の戸も住かはる世や雛の家」(杉風には孫がいるのでわたしが譲り渡した後では雛祭りをするだろう)と詠んで「ほそみち」第一句(ただし序文中)とし、(つまり自身の「わびさび」の境地を強調して)
(旧暦弥生七日)仙台掘りから舟で隅田川を千住まで出て、見送り人と別れ、「千じゅう(千住)と云う所にて船をあがれば前途三千里のおもひ胸にふさがりて幻のちまたに離別の泪をそそぐ」とはやくも泪したことを記し
「行春や鳥啼魚の目は泪」 を矢立初の句とした。
なんか「わび・さび」の達人、「奥の細道」の序文は自身の病弱を強調して「あわれ」を誘う「興行師」芭蕉の正体を暴露するようでもある。
この魚とは鮎の白魚だったようだが、その魚の目も行く春を惜しんで泪で潤んでいるというのだからなんとも度外れた感傷ぶりだ。