終戦の日の千鳥ヶ渕「戦没者墓苑」の風景
8月15日、靖国に向う道路はは混んでるだろうなと思ったから、まず千鳥ヶ渕の氏名不詳者の千鳥ヶ渕「戦没者墓苑」に向かった。

この日は案の定、韓国のヤスクニに反対派の示威行動があったようで、右翼との激突を懼れる機動隊の警備が厳重で靖国通りは超交通渋滞していた。


しかし、「氏名不詳者」の「英霊」を祀る「千鳥ヶ渕戦没者墓苑」は静かだった。
六角堂(氏名不詳者の納骨堂)に奉納された花輪も少なく、昭和天皇皇の嗣子の天皇后両陛下のささやかな献花が眼を惹いた。


ここには、自民党のいう「憲法改正」以前に解決すべき「大問題」がひそんでいることが初めてがわかった日だった。



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昭和天皇の御製の歌の碑である。
昭和天皇について批判があるのは当然だがわたしは「好き」である。


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同上

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氏名不詳の「遺骨」が増えてきたので、当初の設計計画では間に合わず、地下の納骨スペースを増やした書いてある。(眼が悪いのでマニュアルレンズ(目測)のピントが狂った)


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ささやかな献花台。ここに遺族にも知らされぬ「氏名不詳」の東アジアで戦没した多数の「英霊」の遺骨が「収納」されているのである。
ここの御魂は当然、「ヤスクニ」には氏名不詳であるがために、永遠に祀られることはない。


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千鳥ヶ渕には墓苑とは無関係なボートハウスもすぐ近くにある。戦後〇十年の現在では当然だろう。

しかしここには、戦後68年間平和を守ってきた「英霊」の墓所とは認定されない「戦没者墓苑」があるのである。



「千鳥ヶ渕戦没者墓苑」の設立経緯とその法的性格については「MORE」に記載することにした。


この問題はいま声高に叫ばれている「憲法改正」の前に、まず過去の太平洋戦争による身元不詳の戦死者を国家として、どう処遇していくか、その「解決」を問われている問題だとおもわれる。


今後、海外に派兵された自衛隊員のうち、氏名と身元引き受け人のはっきりしている「戦死者」だけが、国家が関与しない「ヤスクニ」で「英霊」となり、戦闘に伴う「病没者」や「氏名不詳の戦死者」は自民党の好きなヤスクニにも祀られない現在の制度の中で、本当に「国」の「大義」ために身命を賭す事ができるだろうか。


本当の戦争ではどういうことが起こるのかがわからない「想定外」の安倍(麻生)さん!?



●●◎これ、面白い。ナチス閣僚が麻生発言に驚いて、対処法がわからず混乱するパロディ動画      ↓
http://martin310.exblog.jp/18410441/
      ↑
これは傑作! 総統閣下が麻生発言にお怒りのようです。(オモシロ翻訳付)




まじめな人は「MORE」もみてね↓



千鳥が淵にある「戦没者墓苑」は太平洋戦争の際に海外で戦争で死亡した軍人・一般人のうち、身元が不明の遺骨や、引き取り手のない遺骨を安置するため、1959年(昭和34年)につくられた国が維持管理する「戦没者の納骨堂」で面積は,1.6haある。


氏名が判明し、遺骨が親族に引取られた者のうち、軍人の「戦死者」は「靖国神社」に祀られるが、そうでないもの(軍人でも病死者や一般人)は靖国には祀られない。


つまり、千鳥が淵の「戦没者墓苑」は靖国とは縁のないばかりか遺族とも切り離された「さまよえる英霊」(海外戦没者)の墓苑なのである。


いま「墓苑」と書いたが、「墓地」を管轄する千代田区では、千鳥ケ淵を「墓地、埋葬等に関する法律」上の“墓”としては認めておらず(墓地であれば被埋葬者の氏名・死因・場所などの特定を要する)、法的性格は遺骨の“保管庫”に過ぎない事が2001年(平成13年)に発覚したのだそうだ。


法律上の「墓」かどうかはともかく、遺骨は納骨堂(六角堂)の中央に古代豪族の寝棺を模した陶棺が置かれ、その地下に戦災者(戦死者)の主な戦域別(本土周辺、満州、中国、フィリピン、東南アジア、太平洋・ソ連)の6部屋に分けた地下室を設けて、鋳鉄製納骨壺に遺骨が安置されるているそうだ。


平成23年10月現在、安置されている戦没者の遺骨は35万5,404柱だが、それは遺骨収集が進むにつれどんどん増えてきたようだ。
そこで、当初設計の六角納骨堂では収納しきれなくなり、納骨堂の拡張が平成3年、12年、25年の3回にわたってすでに行われてきた。(写真3枚目の碑)第二次世界大戦により、海外で死亡した日本人(海外戦没者)の数は、約240万人(軍人軍属・約210万人、一般邦人・約30万人)に及ぶとされる。


終戦後、海外戦没者の遺骨は、復員者により持ち帰られ、あるいは、アメリカ軍から送還された。さらに、占領統治からの独立を果たした1952年(昭和27年)4月頃から、日本政府も国外戦没者の遺骨収集を開始した。
これら国外戦没者の遺骨のうち、身元の判明した分については当然遺族に引き渡された。

身元不詳の遺骨や引き取り手のない遺骨については厚生省(遺骨収集事業を所管)の本省庁舎や市ヶ谷庁舎に「仮安置」されていたが、その増加につれ、安置・慰霊方法の確立が求められた。
そこで生まれたのが千鳥が淵の「戦没者墓苑」だったのである。


1953年(昭和28年)12月11日、「戦没者遺骨の内、氏名判明せざるもの並びに遺族不明のためお渡しできぬものを、国が建設する「無名戦没者の墓」(仮称)に収納し、国の責任において維持管理する」との方針を閣議決定し、昭和34年にこの地に誕生したのである。


わたしは閉苑15分前に訪れたのだが、それでもまだかなりの人が祭壇に向かって手を合わせていた。縁者かどうかは知らない。


墓苑には昭和天皇の戦没者を痛む御製の碑がある。
「国のため いのちささげし人々の ことを思えば むねせまりくる」


昭和天皇が靖国神社が東条合祀以来参拝を取りやめたのは周知のこと。
戦没者墓苑には天皇皇后の慰霊の花輪が奉じられていた。(写真5枚目)


●戦没者墓苑は墓地埋葬法との関係でなにが問題になったのか。

 墓地埋葬法が想定しているのは、氏名・出生年月日・死亡年月日・死亡場所・死因などが明らかな個人の死体・遺骨である。
 それを火葬・埋葬・改葬するには市町村長(特別区では区長)の許可が必要である。
 戦没者墓苑に納骨されている戦没者は氏名不詳の者が多く、遺骨も個人別に特定されていないから、法に定める「墓地」「納骨堂」に埋葬・改葬できるものではなく、戦没者墓苑は「墓苑」という名称でも法的には遺骨の仮保管所といういうことにならざるを得ない。

一方、靖国神社には「遺骨」は埋葬されておらず、靖国神社は氏名の特定されている「戦死者」の「英霊」を祀る宗教的施設で、墓苑ではない。

 氏名・死因の特定されない死者の現実に存在する「遺骨」を誰が、どう、宗教的尊厳を保ちつつ、保管するべきなのかは新たな立法行為が必要となっている。


●墨田区横網町にも関東大震災および東京大空襲による身元不詳者の遺骨を納めた東京都慰霊協会が管理運営する東京慰霊堂がある。

 現在ある横網町公園はもと陸軍被服工廠跡地で、関東大震災の起こったときは被服工廠はすでに移転していて、空地であったこの地に避難した付近住民は火災旋風に巻き込まれ、この地だけで(推定)東京市全体の死亡者の半数以上の3万8000人程度が死亡したとされている。納骨堂にはなんと大震災による多数の遺骨がいまだに引取り手を求めて安置されている


 また、東京大空襲による死者は7万7000人と推定されているが、身元不詳の遺骨がこの慰霊堂に集められて引取り手を求めている。
by aizak3 | 2013-08-18 23:00
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