白山は東洋大学のあるところ、白山神社と根津神社のあるところくらいの知識しかなかったが、訪れてみたら「八百屋お七地蔵」というものに出くわした。5枚目がそれ。円乗寺参道の角だ。
なぜ「お七」が地蔵になるのか。驚いてググって見ると、「お七地蔵」はここだけではなく、白山に二箇所(円乗寺、大円寺)、目黒に一箇所(もとは明王院=現在の雅叙園にあったがそれを行人坂の大円寺が吸収して現在は大円寺)、お七の処刑地の大森鈴が森に一箇所(八幡山蜜巌院)あることがわかってさらに驚いた。
それぞれ「お七」ゆかりの寺であるが、それにしても、我が家(大店の八百屋)に放火して大火の再来を企図した重罪人のはずの「お七」が、一途な娘心の哀れを誘うことで歌舞伎や文楽、国芳の浮世絵を通じて江戸庶民には大変な人気者どころか人の世の苦悩を救う地蔵にまでなっていたことに驚いた。
お七は西鶴の『好色五人女』の一人でもある。(西鶴のいう「好色」の意味は各自で調べてね)
さて、八百屋お七の実家があった場所は本郷追分(中山道と日光御成道(岩附街道)の交差点)の辻近くで、青果物の大店を営む「八百屋太郎兵衛」であった(ウィキペディアでは「八百屋八兵衛」となっている)。
それが、天和の大火(1682年12月)で焼け出されて、一家が円乗寺に避難したことが事の発端。その寺に寺小姓の吉三(郎)(18才)がおり、お七(16才)は片時も忘れえぬ相思相愛の仲となってしまった。
ほどなく太郎兵衛の店は再建され、一家はそれに移るがお七は吉三に会いたくてならない。
また市中に大火が起これば木戸も開き円乗寺に行ける。吉三に会いたい一心でお七は我が家に放火して自ら火の見櫓に登り半鐘を打ち鳴らすが、案に相違して大火にはならず、小火(ぼや)で消し止められてしまったが、小火とはいえ放火は重罪、市中引き回しの上鈴が森で火刑に処せられ晒し首となった。
このまだ年端も行かない小娘に対する極刑事件は、一途な娘心のなせる業が小火で終ったこともあって、江戸庶民に大変なショックと同情を呼んだようで、歌舞伎や文楽の潤色もあって、円乗寺に「八百屋お七地蔵」が誕生したのである。
(死したお七は自らの罪業を洗い流して、この世の苦しみを救う地蔵となった。これをお七がこの世のすべての人の苦しみを救うために焙烙地蔵になったと解すれば、キリストの磔刑にも通じる話になるだろう。釈迦の前世物語「捨身飼虎」とか仏教にもキリスト教に通じる物語がある)
では、白山のもう一つの寺、大円寺(通称「駒込の大円寺」、現向丘高校の裏手)の場合はどうかというと、こちらはお七そのものではなく、火炙りの刑に処せられたお七の菩提を弔うために建てられた「ほうろく地蔵」という地蔵が立っているそうである。
「ほうろく(焙烙)」は物を煎る素焼きの土鍋で、お七の罪業を救うために、地蔵が熱した焙烙を自らの頭に被り、自ら焦熱の苦しみを引き受けた地蔵とされている。さぞ大変な信心を寄せる信者を集めたことだろう。
目黒の明王院(現雅叙園敷地)はお七の刑死を知った吉三がのちに僧(西運和尚)となり、お七の菩提を弔っていたところ、お七が地蔵となって夢枕に立ったので、お七地蔵を立てた寺。
明王院は明治13年に目黒行人坂の大円寺に吸収され、大円寺の境内に阿弥陀堂として祀られているそうだ。
なお、結婚式場も営む雅叙園の入口脇には、なぜか「お七の井戸」があるそうだ。
(多分、お七が地蔵となって西運和尚(吉三)の夢枕に立ったという話が、各寺に「お七地蔵」が立てられることになった発端だろう)
最後に、大森鈴が森の八幡山蜜厳院は、極刑に処せられたお七の屍体を引き取って埋葬したと伝えられる寺。お七の3回忌にあたる貞享二年(1685年)、刑死したお七が住んでいた小石川村の百万遍念仏講がお七地藏を造立したものだという。
詳しくは下記、その他で各自で調べるべし。
http://www.kmine.sakura.ne.jp/tokyo/jinjyabukaku/yaoyaoshiti/yaoyaoshiti.htmによる。
「お七地蔵」に御参りすると恋愛成就、頭痛、眼病などに効くという。