丹三郎の末裔の館(奥多摩開拓史)
写真ネタ切れなので、日原を撮ったついでに別の日に撮りに行った「丹三郎」の現在を載せる。
丹三郎は日原の開発者原島丹次郎友一の弟の原島丹三郎友連が開発した村である(現在は奥多摩町丹三郎)。
青梅から吉野街道を古里駅に向って行くと、古里駅付近で大きな屋敷の門に出会わせるのですぐわかる。



吉野街道から見た原島丹三郎の末裔の本宅
丹三郎の末裔の館(奥多摩開拓史)_d0082324_13573125.jpg

吉野街道から見える長屋門
丹三郎の末裔の館(奥多摩開拓史)_d0082324_13581397.jpg

長屋門の屋根
丹三郎の末裔の館(奥多摩開拓史)_d0082324_13582640.jpg

広い中庭(昔は収穫物の作業場)の一部
丹三郎の末裔の館(奥多摩開拓史)_d0082324_13583627.jpg

長屋門が東京都の選定歴史的建造物となった説明板
丹三郎の末裔の館(奥多摩開拓史)_d0082324_13584620.jpg

現在の当主の居宅。宮造り(当主の説明では旧本宅に手入れして居住するのは大変なので、別に建てたとのこと)
丹三郎の末裔の館(奥多摩開拓史)_d0082324_1359588.jpg

同 原島の表札が懸っている。
丹三郎の末裔の館(奥多摩開拓史)_d0082324_13592127.jpg

築200年の旧居宅(現在は飯能の蕎麦屋さんに貸して手打ち蕎麦屋を営業している。ちなみに1の付く日が休みらしい。原島さんのご当主の話では、売り切れるとお終いなので電話してから来た方がよいとのことだった)
丹三郎の末裔の館(奥多摩開拓史)_d0082324_143766.jpg






原島氏は熊谷次郎直実の末流と称し、武蔵七党の一つ丹党の出身であることは、以前(日原探訪のとき)紹介した。
熊谷原島村の出身で、南北朝動乱の歳新田義貞軍に味方し、新田軍が足利軍に敗れると原島村を追われて奥多摩に逃れて、原島をを名乗り、兄丹次郎友連が日原を開発し、弟丹三郎が丹三郎村のみならず、大丹波(おおたば)、小丹波(こたば)を開拓したと云われている。

経済的には弟の方が成功したわけだ。
その理由は、土地の生産物の差にある。

弟の丹三郎が陣取り開拓した丹三郎村、さらには小丹波村、大丹波村一帯は良質な杉の産地で、多摩川を利用して多摩一帯はもちろん、江戸時代には木場にまで供給することが出来たようだ(丹三郎の丹生杉)。

一方、兄の日原は、奥多摩工業が採鉱を始めるまではほとんど石灰の採掘は不可能で、江戸時代の江戸への石灰(土蔵や塀、壁の材料)の供給は、青梅近郊に豊富にあった石灰鉱床が供給源であった。
したがって、日原の産物は白箸、下駄の甲などが寛永寺の庇護もあって、江戸市中まで出回ったといわれるが、その運搬手段は牛馬も通行困難といわれる急峻な山道を背負子を背負って氷川村(現奥多摩駅)まで往復しなければならなかった。
もっとも、戸望鉱床のそばの倉沢は昔から良質なヒノキの巨木が自生していることで有名だったが、このヒノキなどを切り出し、運送するには急峻なU字渓谷の日原川までまず「修羅(木製のソリ)」で運び、日原川を鳩ノ巣渓谷まで一本流しで下ろし、そこではじめて筏に組んで多摩川を下すという非常な手間がかかった。



しかし、日原は奥秩父方面に抜ける通路があり、秩父浦山口方面に原島姓の家々が数多く見られるのは奥秩父と日原の交流が盛んに行われていた証といわれている。



ところで、丹三郎集落では丹三郎屋敷だけが大きい旧家かと思っていたら、すぐそばにもう一軒大きな旧家があった。S家という。以下の写真は門前で偶然出合った奥さんが撮ってもいいというので撮らせて貰った。こっちは武家の長屋門のような立派な門だ。

丹三郎の末裔の館(奥多摩開拓史)_d0082324_15372339.jpg


丹三郎の末裔の館(奥多摩開拓史)_d0082324_1537371.jpg


最後に丹三郎、古里駅、小丹波、大丹波付近の航空地図を載せる
丹三郎の末裔の館(奥多摩開拓史)_d0082324_15375126.jpg



原島の出自について、新田軍と足利軍の戦いについてちょっと触れたが、南北朝の乱については「これ」が要領がよくて面白かった。クリックしてみて。


★丹三郎のお蕎麦の方は食べログにいっぱい出ているので自分で検索してみてね。。
by aizak3 | 2013-02-22 15:47
<< 昭和石材 古里鉱山探訪 冬のまち >>