川べり散歩から、そろそろ駅に戻ろうと思って、見当をつけた道をぶらぶら歩いていたら「近衛」という表札がある大きな屋敷の前に出た。
え、あの近衛文麿の屋敷かな?と思ったが、なんで都心でなく郊外の荻窪に「近衛公」の屋敷があるのだろう、ホントにあの「近衛公」の屋敷だろうか、と疑問になって調べてみた。
近衛家には本来、目白(現在の新宿区下落合)に本邸があり、荻窪のこの屋敷は元は大正天皇の侍医頭だった入澤達吉という人が所有していた郊外の別荘だった。
ところが、近衛文麿は、南に斜面をもった高台に立地して、その当時は、善福寺川から遠くは富士山までの景勝を一望のもとに見渡せたこの別荘に惚れ込み、入澤を口説き落としてこれを手に入れたのだそうだ。
この屋敷を目白の本邸に対して「荻外荘」と呼ぶ。
この屋敷を「荻外荘」と名づけたのは、有職故実の奥義に通じた西園寺公望(最後の「元老」)とのことなので、何か意味ありげに受け取られる名称だが、「荻外荘」の意味は文字通りの「荻窪の外」で、特に故事成句に因むような深遠な意味はないのだそうだ。
近衛はこの荻外荘が殊の外気に入って、一度ここに住み始めると本邸の方へは二度と戻らなかったといわれる。別荘のような名称だが、実は事実上の本邸で、しかも総理官邸よりここで昭和史の重要会議と決定がなされたのだそうだ。
昭和15年(1940年)7月の「東亜新秩序」の建設を唱導・確認した「荻窪会談」、昭和16(1941年)10月の対米戦争の是非とその対応を協議した「荻外荘会談」、そのひと月前の昭和16年(1941年)9月の連合艦隊司令長官の山本五十六に対する対米戦に対する海軍の見通しについての下問など。このときの山本長官の答えが有名な「是非やれと言われれば初めの半年や1年は随分と暴れてご覧に入れます。しかし、2年、3年となれば、全く確信は持てません」であった。
(日本は石油の約8割をアメリカから輸入していたため、このうちのアメリカの石油輸出全面禁止が深刻となり、日本国内での石油貯蓄分も平時で3年弱、戦時で1年半といわれ、早期に開戦しないとこのままではジリ貧になるとの見通しが陸軍を中心に強硬論が台頭し始める事となった。山本長官の応えはアメリカからの経済封鎖を念頭に、ある意味では海軍の戦争責任(敗戦責任)を回避するものでもあった)
(近衛内閣は真珠湾攻撃の寸前、昭和16年10月に総辞職したが、近衛内閣こそ事実上の日米開戦の責任者だったといわれている)
戦後A級戦犯として訴追されることを知った近衛はここ荻外荘で服毒自殺を遂げた。
葬儀は1945年(昭和20年)12月21日に行なわれた。京都市北区の大徳寺に「近衛家廟所」が在り、文麿の墓所はその地に在る。
近衛の死後、主なき荻外荘を一時近衛家から借りて私邸代わりにしていたのが吉田茂である。
また、1940年(昭和15年)から近衛は自らのブレーンとして重用しはじめた井上日召(血盟団の創設者。血盟団事件の首謀者)を同居人としてここに引っ越させている。
荻窪一帯は空襲を免れたため、荻外荘も戦災を免れたが、1960年(昭和35年)に応接室を含む建物の約半分が、東京都豊島区巣鴨にある天理教東京教務支庁の敷地内へ移築されたが、荻外荘敷地は今なお近衛家の所有であるそうだ。
日本新党を結成して総理大臣となった細川護煕(もりひろ)は、近衛文麿の次女の温子(よしこ)が細川護貞と結婚して生した子(外孫)。また次男の細川忠煇は近衛家の養子となって日本赤十字社社長。
文麿の生母は衍子(旧加賀藩主 前田慶寧侯爵の三女)
ともかく、国民の待望を担って登場しながら、ついに日米開戦にまで突き進んだ近衛文麿という人の思想と行動は謎が多い。
「一人一殺」の井上日召を「荻外荘」になぜ住まわせたのか?、大久保利通→牧野伸顕→吉田茂→麻生太郎となる家系の吉田茂がなぜ戦後一時ここに住んだのか?
そう思って、あらためてこの屋敷を眺めると「妖気」が漂っているようでもある。
近衛家は九条家と共に歴代摂政・関白を務める摂関家の筆頭だが、ついでの話に、戦前の華族令によるインチキな貴族制度も面白い。一覧は
「ここ」をクリックしてみて。華族制度のインチキ性がわかってなかなか面白いぞ。
★近衛の目白の本邸の方はその後売却され、分譲されて近衛町と呼ばれる地域が残っている。
目白は豊島区だが、近衛町は目白駅に近い新宿区内である。
新宿区内でも目白駅に近いマンションやビルは現在でも目白を冠称するものが多い。