
これは裏の家の宅地延長部分を玄関としたものだろう。
上の写真とは全く関係ないが、団子坂は本郷台地の一画をなす台地が不忍池に至る急坂である。
上野〇丁目散策のときに、上野戦争に触れ、この団子坂上に陣地を敷いた長州藩が最新式アームストロング砲を放ったことが勝敗を決したと書いてしまったが、実際に団子坂上に行ってみると、ここからでは寛永寺はあまりに遠い。大砲を打つなら加賀藩邸(現東大)の方がはるかに近いのにとの疑問が生じた。
そこであらためて調べてみると、団子坂から大砲を打ったというのは誤りで、やはり東大からだった。しかも打ったのは長州藩ではなくて、佐賀藩だった。
以下に上野戦争の時の戦争陣地の配置図を示す。
戦争は上野広小路の現松坂屋の二階に大砲を据えつけた西郷軍(薩摩藩兵)の号砲で始った。
正面突破隊の西郷軍は、黒門に畳を積み上げて、上野山の上から発砲する彰義隊とは一進一退で、死傷者も多かった(結果としては、官軍死者40名、彰義隊死者200名)。
松坂屋の大砲は地形上も不利であまり効果はなかったようだ。
団子坂上から攻撃した長州軍(大村益次郎)は、急坂を下った不忍通り一帯が当時は田圃で、当日は雨だったので田圃から溢れた水で畦も田圃も区別なく、泥濘に足をとられて進撃に手間取った。
勝敗の決め手になったのが加賀藩邸に最新式のアームストロング砲を据えた佐賀藩の大砲で、これが中堂付近で炸裂すると、たちまち建物を吹き飛ばし、火災が起こった。
このとき、会津藩からの援兵を装った長州の別働隊が彰義隊本営にやすやす侵入し彰義隊の背後を急襲。
彰義隊は混乱に陥り、それぞれの判断で根岸方面に落ち延びていった、ということらしい。
落ち延びた道は谷中墓地を抜けるか、鶯谷の急坂を下ったのだろう。
官軍死者40名の各藩ごとの内訳はわからないが、おそらく黒門で戦った薩摩藩兵がほとんどだろう。
この作戦を指揮したのは大村益次郎(もと長州の町医者。明治陸軍軍制の創始者のひとり)だったと云われる。