さて、お話は変わって、以下は現上野1丁目の「黒門」についてである。
上野1丁目の人たちは,いまだに「黒門」好きのようだ。
町会の掲示板にもいまだに黒門町を使っているし、店舗名にも使っている。
黒門とは東叡山寛永寺の総門として、広小路方面の山下から寛永寺に入る清水観音堂の辺りにあった頑丈な冠木門のことだが、江戸以来、戦前までの上野が「下谷区」だった時代に、黒門のヘリにある「まち」を「上野黒門町」と呼ぶのは、まあ自然だろう。
とすると、現在の上野2丁目のほうが、下谷区時代に「黒門町」があった地域だし、本家とも思われるのだ。
しかし、現上野1丁目のほうも、黒門小学校があり、下谷区時代に「東黒門町」(すでに本家ではないが)や、「西黒門町」があった地域なので、町会の掲示板や商店の店名に黒門を名乗ってはいけないともいえないが、なんとなく、しっくりしない感じはする。
なんで、そんなに「黒門」が大事だったかというと、それが江戸時代、絶大な権威・権力を誇った徳川将軍家の祈祷所兼菩寺だった東叡山寛永寺の総門だったということと、江戸城辺境の地の上野住民の事大主義感情だったというほかない。
(火事と喧嘩は江戸の花とかいって気風のよさを誇っても所詮、江戸っ子というのは、権力・権威に弱かったのだ。それが江戸っ子の商売繁盛の心得でもあったのだ。日本人はマッカーサーが来ればそれを崇め、それを暗殺しようとするものは右翼、左翼を問わずひとりもいなかった。米軍にさえ不思議がられた)
以下に、江戸地図と戦前の下谷区の現上野〇丁目に当たる場所の地図を示すが、戦後の下谷区・浅草区の合併による台東区の誕生に際しても、住民が「黒門」を称しがっていたことが想像されて面白い。
●江戸期の上野寛永寺と黒門のあった場所

右端の「大久寺」とある付近一帯が現上野駅のあるところ。「御本坊」は現国立博物館のあるところ。ここにも「黒門」があったが現在は隣の輪王寺の門として移設されている。「黒門町」の起源となった黒門は寛永寺総門として画面中央下の黒門である。ここは彰義隊と松坂屋(当時はいとう呉服店)から出撃した西郷軍が一進一退の激闘を演じたところ。画面中央の「中堂」などの建物のあるところが現在大噴水のある上野公園の中央広場。不忍池のへりの「仁王門新町」一帯は現上野2丁目。
●戦前の下谷区時代の上野の山の下の町名地図
戦前までの旧下谷区の地図では上野の山下の、いまの上野2丁目から池之端の一部と数奇屋町を除いた地域が「黒門町」とされている。
しかし、その南側は「北大門町」とされており、「大門」というのはつまり黒門のことだろう。
「黒門町」「北大門町」の東側の松坂屋を含む広小路(明暦の振袖火事で日除けとして拡幅された。現在の中央通り)に面する一帯は、「上野広小路町」であり、その南にさらに「東黒門町」がある。
松坂屋の南側の線で広小路(中央通り)を西に渡ると「西黒門町」となり、この地図上にも「黒門町出張所」という下谷区役所の出張所が「黒門」と名乗ったことが記されている。
ここが「現在の住居表示の上野1丁目」で、ここには現在も「黒門小学校」がある。
(まあ、地元民ではない部外者には、ここ(現在の上野1丁目)が黒門町の本家とは思えないが、名乗ってはいけないだろうとまでは云えない。(もともと、この地にもはや江戸時代の末裔なんて居ないのだろう)
また、現上野3丁目と神田末広町の境に「神田黒門郵便局」があるが、ここは旧「同朋町」か(同朋とは茶坊主、お城の小使い)か、旧「坂町」のどちらかで、東黒門町でもないので、これは郵政省が付けた単に便宜上の郵便局名だろう。
この地図で注目すべきは戦前の下谷区時代に「上野町2丁目(現上野4丁目の一部)」、「上野町1丁目」があることで、これは元は「上野町」であったものが二分されたのである。
この地が山下の下谷なのに「上野町」を称しているのは、ここが寛永寺創建のために上野の山を追われた旧「上野村」が替地として賜ったところなのだろうか。
その「上野」という地名の由来も無視して(あるいは時代の変遷によって)、現在の住居表示は、上野1~7丁目を定めたのだというほかない。(もっとも「上野町」1~7丁目とはしなかったが)
ついでにちょっとこの地図上の地名の説明をする。
三橋町(現上野4丁目)は上野の黒門の下を流れていた忍川(現下水道)にかかっていた三つの橋の前の場所の町に由来。
しかし現行の町名表示についてはわからないことがある。
なぜ、
黒門小学校のある上野の南側(旧北大門町、旧西黒門町)が「上野1丁目」で、
その北側の池端(旧黒門町)が「上野2丁目」で、
「上野3丁目」がまた現上野1丁目の東側(旧上野町1丁目、同朋町、長者町、坂町、東黒門町)で、
「上野4丁目」が「上野3丁目」の北側の、上野の黒門に近い(旧三橋町、上野町2丁目、上野広小路町の一部)で、
「上野5丁目」がJRの線路を跨いで南の旧仲御徒町1,2丁目と仲御徒町3丁目の一部で、
「上野6丁目」がその北の仲御徒町3丁目の一部と仲御徒町4丁目なのか。
こういう無規則な町名の点け方は、町名整理というよりグジャグジャさせただけのようにも見える。
かなり複雑ないきさつがありそうだ。
なお、上野7丁目は旧町名では「山下」といわれた地域で、JR上野駅は現住居表示では台東区上野7丁目1番地である。
あ、最後に、上野の山には「黒門」といわれるものが二つあることにご注意。
一つは彰義隊が西郷軍と戦った清水観音堂付近の寛永寺総門としての「黒門」。
これが、上野の人が好きな黒門だ。(このブログで使った黒門)
もう一つは、寛永寺本坊(現国立博物館)前の黒門。これは現在は隣の輪王寺の門に移設されている。
「数奇屋町(現上野2丁目)」は江戸城で茶席の接待をした茶人の拝領地に由来。
最後に、もうひとつ、ついでの話。
せっかく、勝海舟と西郷隆盛の浜松町の薩摩屋敷での会談で、「江戸城無血開城」が決まりながら、
「寛永寺」寺域がほとんど焼けてしまったのか。
もちろん、彰義隊が立て籠もったことが原因だが、西郷はゆっくり彰義隊を逃がそうと思っていたのだと思う。
板垣退助と大村益次郎が、慶喜の首に固執して、団子坂(現文京区湯島)から、大砲を6発以上ぶっ放して、寛永寺域内を丸焼けにしたのだ。