奥多摩工業の無人トロッコの見える場所
青梅線の終点奥多摩駅(旧氷川駅)の駅前広場に立つと奥多摩工業の巨大な砕石処理場の威容が山村に独特な雰囲気を醸し出している。

この駅を出発点として目的の観光地や山歩きに出かけるハイカーや一般観光客はあまり気に掛けないかもしれないが、日原集落で放棄された大きな奥多摩工業社員寮を発見してしまったので、どうしても奥多摩工業の石灰採掘場と運搬手段を見てみたくなった。


石灰石運搬は、はじめは地上に立てた支柱を結ぶケーブルリフトで、次は日原小学校跡地に展示されている電気機関車で、現在は牽索鉄道といわれるケーブルで索引される無人トロッコで採掘場から氷川工場まで運搬されているが、ほとんどが山中のトンネルで、渓谷を渡らなければならない場所だけが鉄橋で地上に顔をだしている。

それが見える場所はほとんどないが、地図を頼りに辿ってみた。


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駅前の奥多摩町役場の駐車場からみた奥多摩工業
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町役場駐車場から日原川に懸る橋からみた奥多摩工業全景
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撮影地点の橋


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栃久保の山から見ると左後方の煙突の陰の辺りにトロッコ線がみえる
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拡大した写真。煙突の後ろにトロッコが二両見える
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栃久保集落での撮影地点


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川乗谷入り口のちょっと手前の白妙橋から見た日原渓谷を渡る無人トロッコ。複線である。このときは次々にやってきた。
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日原街道から日原鉱床(トボウ岩)が見えるのはここだけ。山腹にトロッコ線が見える。旧道を「探検」すればもっと鉱床も見えるらしいが危険だ。
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倉沢谷も倉沢鉱床がある
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日原小学校付近から見たトボウ岩の一部。採掘場はこの山の裏側。日原街道はこの山をトンネルで潜る(日原トンネル)


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この図は、旧建設省関東地建の京浜工事事務所が多摩川流域を総合的に編纂した『多摩誌』に資料として掲載されていた図を引用した。
日原鉱床が貧鉱化しつつあるので、奥多摩工業はもっと奥の天祖山に鉱業権を取得し、現在は既にそこから石灰石を採掘している。
すべて地下トンネルにより立石・燕岩の採掘現場から三ツ又を経由して日原鉱床に運ばれ、そこから無人トロッコで氷川工場に運ばれる。
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天祖山鉱床
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日原鉱床と天祖山鉱床の位置


奥多摩工業と石灰採掘の歴史は、『多摩誌』の該当箇所をそのまま「more」に引用した。


京浜工事事務所の編纂した『多摩誌』はweb上で検索でき、全文が読むことが出来る。






3.2.2 奥多摩の石灰工業 建設省京浜工事事務所『多摩誌』

 奥多摩町には古くからある製材工場(9工場,86人)のほかに,近年は電機部品等の工場も多くなってきたが(約20工場,350人),やはり最大の事業所は日原で石灰石を採掘する奥多摩工業であり,その関連企業である.

奥多摩工業は従業員数約300人で,日原に3個所の鉱山があり,いずれも氷川駅に運ばれて選鉱し,セメント工場や製鉄所へ出荷されているが,青梅市上成木にも梅ヶ平鉱山があり,瑞穂町富士山に化工場がある.また,奥多摩町倉沢に奥多摩化工があって,生石灰の生産を行っている.

 奥多摩工業は,1927年に浅野セメントが買収していた日原の山林133町2反6畝を継ぎ,10カ年以内に当時の鉄道の終点御岳から氷川まで鉄道を建設し,石灰石の採掘を行おうとしたもので,日本鋼管と鶴見造船が300万円を出資して,奥多摩電気鉄道株式会社として設立されたものである.

鉄道は1941年に着工されて1944年に竣工したが,当時の地方鉄道法によって国有化され,会社は現社名となった.
氷川から戸望鉱床まで5kmの索道が建設され,実際に営業を開始したのは第二次世界大戦後の1946年であった.1947年の年産額は6.8万tであったが,1952年には39.8万t,1957年には126.1万tに達し,1961年には200万tを超えた.

 採掘は朝顔坑の露天掘りで,底部からトンネルの運鉱路を通って岩松に集められ,ここで砕石される.砕石はさらに底部より鉱車に積まれトンネルの曳索鉄道を通って氷川に運ばれ,ここで選鉱される.カーバイド用やセメント用の鉱石はそのまま貨車で出荷されるが,高炉用や硝子用の4mm以下の細粉は水洗して砕石し,選別される.また,転炉用の生石灰を造るために,1961年,奥多摩化工が建設された(参52).

 石灰石は1950年制定の新鉱業法によって新たに適用鉱物となったため,奥多摩工業は,1963年にかけて倉沢・天祖山・小川谷・已の戸・樽沢・御前山・川乗山など2,618haに鉱業権を設定した.
そして戸望や油面を中心とした日原鉱床の貧鉱化に伴い,1967年より三ツ又鉱床を開発して生産量を確保し,さらに天祖山鉱床の採掘を計画した.奥多摩工業は1961年に天祖山採掘予定地の使用許可を申請し,63年には通産局が施業案を許可し,65年には保安林指定が解除されている.

しかし,この土地は東京都水道局の水源涵養林でもあり,ブナの原生林にニホンカモシカの残る数少ない自然でもある.
そこで水道局の土地使用認可については,1972年ごろより住民を中心とする反対運動が起こり,公害監視委員会の取り上げるところとなった.


しかし,東京都は環境アセスメントのうえ申請面積を縮小し,自然環境の保護・復元対策を条件として,奥多摩町の過疎地域振興と鉱業法の産業優先権を理由に,開発を許可した.
奥多摩工業は1974年より天祖山の開発に着手し,月産30万tで向こう30年間採掘し続ける体制を固めた.採掘された石灰石は主に日本セメント,第一セメント,日本鋼管等で使われ,青梅線や南武線を利用して出荷される(参53)(参54).(図8.3.23 日原石灰山の開発)


 多摩川の上流地域の石灰工業としては,このほかに日の出町の日本セメント(現太平洋セメント)がある.

これは1929年に浅野セメント(1947年に日本セメントと社名変更)が勝峯山を開発して西多摩工場を建設し,セメント生産を開始したものである.1961年には檜原村でも石灰石が採掘され,ここで使用されたが,その後,休鉱し,勝峯山も貧鉱化して,現在は原料の大半が他地区から搬入されている.しかし,約300人が働くこの工場は日の出町にとっては唯一の大規模工場であり,町の工業従業者の35%を占めて,地域経済に占める比重は大きい.

 そもそも浅野セメントが多摩川上流の石灰石を利用し始めた歴史は古い.浅野セメントは1883年(明治16),深川工作分局の官営セメント工場を貸与され,翌年には払下げを受けて生産を行ってきた.初期の深川セメントは消石灰と隅田川底の泥土を原料にしたというが,やがて原石焼成法が用いられ,この地域が重要な原料供給源となった(参55).

 青梅では,江戸時代の初めより成木・小曽木で生産される消石灰が,幕府御用立となって江戸城や日光東照宮の修造に使われ,八王子石灰または成木石灰といわれてきた.この石灰を運ぶために1606年(慶長11),青梅街道(別名,成木街道)が通じ,1707(宝永4)年からは新河岸川も利用されている.しかし,明治以降は販路がせばまり,最盛期(元禄6年)には30余窯に1,600人の村民が働いた石灰生産も,大正中期には衰亡した(参56).

代わって1888年(明治21),福生や羽村・三田の豪農・豪商が青梅鉄道を設立し,日向和田の山林を買収して立川-青梅間の鉄道を開通し(1894年),1895年から石灰石を採掘し,浅野セメント,鈴木セメント,御料局,王子製薬所などへ供給した.同年の生産量は2,762tであったが,1904年には50,290t,1914年には177,259tにもなっている(参57).

 青梅鉄道は1908年(大正7)には二俣尾の雷電山も買収して生産の拡大を図ろうとしているが,この年に浅野セメントも川崎工場を建設して生産の拡大を企図した.
そこで浅野セメントは原料確保のために1920年,両地域の採掘権を青梅鉄道から買収し,翌年,市内に青梅採掘事務所を設置した.

日向和田の貧鉱化に伴い1920年から雷電山も開坑したが,1927年には閉鉱し,日向和田も1945年に閉鉱した.
また,黒沢山は1907年に浅野セメントによって買収され,翌年開鉱したが,その翌年には閉鉱され,成木の白岩山は1924年に買収されて1927年に開鉱し,30年には閉鉱するなど,次々に鉱山が開発され転移していった.


 そのなかで現在も引続き青梅市内で採鉱されているのは,成木の梅ケ平鉱山である.梅ケ平は1928年に浅野セメントが採掘権を得て翌年開鉱し,同29年にも開通した南武線によって川崎工場へ送られたが,1941年には,採掘場も工場も浅野セメントと日本鋼管が共同出資した日本高炉セメントとなり,戦後の1949年にはともに第一セメントになった.
現在は,奥多摩工業が引き継いで約50万m2の土地から石灰石及び砕石を採掘し,石灰石は瑞穂の化工場で使われている.


 青梅市ではその他に駒木野の吉野鉱山が第二次世界大戦後に開発され松本石灰が採掘していたが,その後,貧鉱化して砕石採取に転じ,是政の富士土木が経営していたが,それも現在は休止されている.




2.1.3 日原古生層

 日原川流域に広く分布している古生層であって,前述した七ッ石山古生層の北東側に分布している.

 主として砂岩と粘板岩からなり,石灰岩・チャート・輝緑凝灰岩を挟んでいる.

石灰岩は特に多くて,厚さ約100mのものが6~7層はさまれている.
これらの石灰岩は,日原を中心としてほぼ北西-南東の方向に配列し,日原鐘乳洞その他の鐘乳洞が形成されている.(写真2.3.4 日原鍾乳洞)
日原にあるイナムラ岩やトボウ岩は,この石灰岩の大露顕である.(写真2.3.5 稲村岩)(写真2.3.6 トボウ岩)

 輝緑凝灰岩とチャートとは,日原川の川筋に沿って,ほぼ北西-南東方向に分布しているものが主なものであって,日原川の支谷の小川谷にもよく現れている.

 日原古生層の上部は,日原川沿いに小川谷の落ち口から,上流へ長沢谷までの間に良く現れているが,この上部層には石灰岩は次第に減っていて,特に己(ミ)ノ戸谷の落ち口から上流の日原川沿いには,石灰岩は全く見られなくなる.

 地層の走向は,日原川の上流部では北40°~50°西,下流部の日原以南では北60°~70°西が多くて,地層が走向方向に曲がっている.傾斜は,60°~80°北東または南西で褶曲している.化石は未だ発見していないが,岩相,構造からこの古生層の連続と考えられる御前山古生層からは,Neoschwagerina等の紡錘虫化石を産するので,本層もそれに準ずるものと考えている.本層の厚さは,日原川の下流部では約2,200mと推定される.
by aizak3 | 2012-11-05 15:21
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