一枚目
旧日原(にっぱら)小学校。奥多摩の日原川の急峻なU字渓谷のわずかな平地を利用して段々畑のように張付く日原集落の一番上部の、一番広い平地(段丘)にある。
明治6年創立というが、そのときもこの場所に出来たのかどうかは不明。
昭和36年、現校舎(木造)建設。高度成長期は日原の石灰採掘が本格化した最盛期だ。
平成6年、奥多摩駅前の氷川小学校に統合されて廃校となる。
ちなみに、日原集落の現人口は、60人足らずと地元のおばさんが言っていた。
日原集落に小学生はいないとのこと(奥多摩駅前の観光案内所の話)。
ただし氷川駅横手の氷川小学校併設の幼稚園にマイカーで通う幼稚園児はいるとのこと(観光案内所の話)
二枚目
小学校の保健室が日原診療所になっている。
三枚目
小学校裏手に観光資源として開設されている「日原ギャラリー」
四枚目
校庭の集落側の崖際にあるシーソー(ぎったんばっこん)。 その奥の建物(コンクリ製)は体育館。
五枚目
診療所脇のあずまやから崖下の日原集落を望む。
六枚目
校庭にある奥多摩工業(株)の電気鉄道(石灰運搬用)のトロッコ列車。電気動力車は三菱電機製、トロッコは日立製作所製だった。電気車は隧道を潜らなければならない区間があるので、高さを抑えて低く設計されたのだろう。電車中央の赤いコーンの左右に見える四角い窓が車軸受けの窓である)
奥多摩町観光産業課のリーフレット「No16日原」によれば、日原に奥多摩工業の「電車」が入ってきたのは昭和19年のことだったと書いてあるが、電車というのはこのトロッコのことだろう。
(奥多摩線(青梅線)が現奥多摩駅まで開業したのは、1944年(昭和19年)7月1日 である。
青梅線 御嶽 - 当駅間開通と同時に「氷川駅(ひかわえき)」として開業した。
しかし奥多摩駅から日原までの足は現在も西東京バスのみである。
なお、日原集落の地場産業は江戸時代以来、現地の木材による下駄の甲作りと白箸だったよが、青梅線が氷川駅(現奥多摩駅)まで入ってくると、この地場産業は衰えたというから、バスで奥多摩まででて、青梅線で青梅・立川方面に通勤して働くようになったのだろう。
眉唾の話なだと思ったが、奥多摩駅観光案内所の話では、現在では日原から立川までは一時間で行けるから日原も通勤圏内ですよとのことだった)
日原石灰鉱床の存在は古くから知られていたが、日原で石灰石の採集が始まったのは戦後のことである(日原工業の沿革による)
青梅線(奥多摩線)は、現在でもはるか手前の奥多摩駅までで、奥多摩駅から日原までは西東京バスによるしかない。
(青梅線(青梅鉄道)が立川-青梅間18.2kmを開業したのは明治27年11月だった。この鉄道は青梅から石灰を搬出するための蒸気鉄道で、甲武鉄道(現中央線)が幅員1,067mmだったのに対し、青梅鉄道は幅員762mmだったため、立川で荷物の積み替えが必要だった。
このため、軌道幅員を規定の幅員のの1,067mmへの改築工事は、明治41年2月18日に竣功した。
青梅線の奥多摩線へのさらなる延伸は、まず日向和田まで2.24kmが貨物輸送(石灰搬出)専用線として明治28(1895)年12月開業、
その後、さらに二俣尾までの延伸が計画され、二俣尾への延長に先だち、日向和田停車場移転が明治45年5月2日に認可され、トンネル307mを含む1.3kmの線路延長が大正3年4月1日に竣功した。 二俣尾への延長が実現したのは、大正9年1月1日であった。
この時期では当然規定幅員になっていたであろう(当初の規定外の狭軌鉄道であった青梅線では立川で、そのまま南武線に乗り入れることは出来ず、立川で貨物の積み替えが必要であり、貨物の滞留ばかりか乗客に積み替えのための時間待ちを強要し不便であった。)
はじめ貨物専用線として出発した青梅線(立川ー青梅間)も、明治31年3月10日以降、全線で旅客列車を運転することになっていた。)
七枚目 同
八枚目
電車の運転席。横向きになっている。電車もトロッコと同じ車台なので、延長を短くする必要があったのだろう。丸いハンドルはブレーキ。丸い引き環はベルを鳴らす装置。試しに鳴らしてみるといい音がした。
九枚目
トロッコは日立製。
十枚目
校舎は集落の集会所にも使われている。
十一枚目
これはなにを吊るしたのか不明の遊具。こんな鉤に逆さ吊りされたら怖い。