参道沿いの木は日が当たるのでよく育つて、大樹となる。
内部の樹木は日当たりが悪いので、大樹となるものはよほどの好条件に恵まれたものしかない。
自然林とはそのようなものなのか。
里山はもとより人が手を加えたものだ。美しいブナ林も、人が手を加えたものだ。
台湾・朝鮮を含む日本中の数多くの樹種をランダムに植樹し、施肥、手入れをせず、「植生遷移」で100年後に自然林とするという本多静六の造林計画は、「明治神宮の森」の名を借りた「大東亜共栄圏」の森の造成計画だったのではないかとふと思った。
もとより単なる思い付きでなんらの根拠もないが。
ところで、自分はなにが撮りたかったのだろうと、写真を並べてみるたびに考えてしまう。
「自然林」という言葉、「森の自然の姿」という言葉に引かれて撮りに行ったのは事実だが、そもそも「自然」というのは一体どんなものだろうか。
それは美しいと感じられるものなのか?怖ろしいものなのか?乱雑で汚く辟易するものなのか?
人間に無害な自然という美化された「観念」自体が、きっと間違いなのだろう。
そうかんがえると、きょうUPした写真も自分の既成観念で美化された「自然」の様相だ。
脱線するが、神宮の森が「朝鮮の虎と北海度・東北の熊が出てきて、参詣人を襲うことがありますのでご注意ください」なんていう森だったら、ホンモノの森だろう。
こんなこと考えていたら、むかしNikonでみた広沢の池だったかの写真を思い出した。
真っ黒な薮から見た池の写真が何枚も吊り下げられていて、じっと見ているとか蚊がぶんぶん飛んできて肌を刺される思いがした。
「名月や池をめぐりて夜もすがら」なんて芭蕉は言っているが、これがほんとの話なら身体中蚊に刺されて、腫れ上がったことだろう。
「自然」とはきっとそういうものだ。