あじさい曼荼羅 6
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抹香臭いタイトルをつけたので、今日は「因縁」について


因縁とは、現在ではならず者が、「きさま因縁つける気か」などといって、些細な相手の言葉尻を捉えて、直接、関係などない相手の言辞を取り上げて、相手を強請りたかりに使う場に使う言葉として、残っているが、本来はインドで発達した哲学用語(仏教用語)なのである。


華厳(インドでは最も美しいと考えられれていた、蓮華の花で飾られている荘厳な真実の世界・世界の真理の意)に至れる思想として、「華厳の思想」が生まれ究明され、この世に存在する一切のものは、孤立・自立して存在するものは存在せず、すべてのもの相互に関係して存在するもの、「相依相存」するものとして捉えられたが、この中で、ある条件(環境)で、現存する事物(人間を含む)の直接的な原因を「因」といい、その事物を取り囲む間接的な環境条件としての原因を「縁」と云った。

したがって、事物にとって、どれが「因」であり、どれが「縁」であるのかは、いつも固定したものではなく、その事物の置かれた場合・条件によって、「因」と「縁」は変化するものだったのが、本来のインド哲学だった。

「縁起」は「因縁生起」(いんねんしょうき)の略である。

仏教は「良因」があっても「悪縁」によってせっかくの良因を毀損してしまう事があると説き、「悪因」があっても「良縁」によって悪因を抑制し、良果を得られることを説き、人間の主体的行為の重要性・主体的人格形成責任の重要性を説いた。


一方、「業(ごう)」という観念は、バラモン教時代からあったが、これを「前世からの宿命」(運命決定論)と考えることに仏教は反対した。


といっても、「業」自体を否定したのではなく、それを克服する方法を示すことで、人間の主体的行為を重要視した。(詳細は略→ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%AD はわかりやすい)


一つのことを始めると一つのことに捉われるのは、私の「業」である。



ということである。
by aizak3 | 2012-07-03 10:22
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