鉄砲洲稲荷正門
稲荷前の通り
空地の散在する風景。
ところで、この地で一番有名なのが鉄砲洲稲荷。
鉄砲洲稲荷神社がこの地に遷座してきたのは、1624年(寛永元年)だと神社の御由緒にある。
鉄砲洲という土地は日本橋川河口の堆積土砂による洲で干潟くらいはあったかもしれないが、陸地になったのは江戸城築城と江戸の町造成による埋立てで出来た土地で、およそ1620年頃のことと想定される。(「more」に掲載した1560年ごろの江戸地形図をご覧下さい)(1616年、家康死去)
したがって、鉄砲洲稲荷はこの地が出来上がるのとほぼ同時にこの地にやってきたことになる。
では、それまではどこにあったのかといえば、御由緒によれば室町時代末期頃から現在の「新京橋」辺りに鎮座し、「八丁堀稲荷」と呼ばれていた。日本橋、京橋あたりは江戸前島と呼ばれる半島状の陸地で、「新京橋」辺りが海岸線で、八丁堀稲荷はは産土神を祀る生成(いなり)神社として信仰されていたらしい。
ご祭神が稚産霊神(わくむすびのかみ)という産土(うぶすな)神だから、新京橋の海岸から鉄砲洲にぜひ御遷座たまわりたいという勧請祈願が起こったのだという。
ところで、その氏子の範囲はかなり広い。その氏子エリアを下に示す。
新川から明石町、新富町、東銀座を網羅している。
しかし、築地は土地のいわれが違うのか氏子になっていない。
(銀座の氏神は赤坂山王の日枝神社だ。しかし勢力範囲が広く、だだっ広いといわれる日枝神社も、銀座通りの日本橋川を渡ると日本橋三越から神田一帯は神田明神の氏子となる)
鉄砲洲という土地がいつごろ成立したのかと思って調べていて手間取ったが、それは結局江戸形成史を調べることと同じだった。
写真には関係ないが、家康入府直後の江戸地形図から日比谷入江埋立てまでの地図を「more」に掲載したので、興味ある人はどうぞ。
1560年ごろの江戸地形図
家康入府頃の江戸の川と海
家康が真っ先に作ったのが、江戸前島の根元をぶったぎる築城資材と日常品搬入のための道三堀だった。当然、大勢の人足と監督指揮者が動員されたから、江戸初期には道三掘り周辺には諸国の商人が群がり、繁華街もできたという。道三掘りは現在の永代通りで、永代橋から呉服橋を経て、日比谷通りの大手町で左折し、和田倉門に出た。現在の和田倉掘りが道三掘りの一部かどうかは不明。はじめ日比谷入り江に河口があった平川をこのとき付け替えたという。道三掘りがあったことがやがて江東に小名木川を開鑿させ、千葉、北関東との物資輸送路に発展させたのかもしれない。
日比谷入り江埋立て後の江戸
幕府興隆期の江戸
江戸城の堀と水路網
永代橋から呉服橋を経て和田倉門に至る水路が「道三堀」で幕府の基幹的物資搬入路だった。
幕府の残した堀のほとんどは埋め立てて基幹的道路となった。