一枚目 愛宕通りの旧田村町(現西新橋)にあった浅野内匠頭自刃の石碑が工事のため一時移転中のお知らせ
二枚目、西新橋付近 画面奥の建設中のビルは森ビルによる52階建て(247m)の複合ビル
七枚目 新橋3丁目の電柱表示がある
八枚目 新橋3丁目、画面奥の建設中のビルは森ビルによる環状2号線再開発ビル
これで「マッカーサー道路」の周辺は一応終りとする。
環状2号線をなぜ「マッカーサー道路」というかについて簡略に以下に記すことにする。
マッカーサーがこの道路を計画したからというのは誤りだ。
真相はその逆。
マッカーサーは日本が復興して再び強国とならないように「インド以下の国力の国にする」ことを占領統治の当初基本方針とし、戦災で生き残った産業機械もすべて接収し破壊した。戦後復興の要であった東京の都市計画道路の縮小・廃止を指示した。
その中の一つがこの環状2号線虎ノ門~第一京浜間の凍結で、占領統治が終って日本の復興が本格化した後も、道路の新設はほとんど行われず、昭和30年代前半は道路は既存道路の「補修」の時代だったといわれる。
ついでながら、終戦直後はすべての資材が「経済安定本部」の統制化にあり、補修材のアスファルトもコンクリートもアンポン長官(経済安定本部総務部長)の許可なしには入手不能だったという。
(戦後日本は食糧増産(肥料)と鉄と石炭・電力復旧を第一とする「傾斜生産方式」を有澤廣巳主導で採用しており、経済安定本部が各省庁を調整していた)。
都市計画による道路の拡幅・新設が実施されるようになったのは「東京オリンピック(1964年)」を迎える1960年(昭和35年)以降で、国庫による大幅な「補助金」が交付されるようになってからだった。これには揮発油税を主たる財源とする「道路特定財源制度」の創立が大きく寄与している。
しかし、国庫補助対象は、緊急のオリンピック関連街路として指定されたものだけだったから、環状2号線のこの地区は対象にならなかった。(赤坂見附から新橋までの区間には外堀を埋めて造った「外堀通り」があった)
(それまでは、東京でも他の戦災都市と同様「戦災復興計画」により財政支出が少ない「戦災復興区画整理」によって、区画街路の新設整備は続けられていたが、幹線道路の整備はほとんど含まれなかった。)
高度成長期を迎えても、環状2号線の虎ノ門新橋地区は、外堀通りが拡幅されていったため、財源的に着手されず、計画線外がビル化されても計画線内は、都市計画制限のため木造2階建て以下とされていたため、老朽化も進んでいったため、都市計画道路の廃止の要望も出されて、いつしか「幻のマッカーサー道路」と新聞でも呼ばれるようになったのである。
ここまでは、たいていの「都市研究家」「都市計画家」の論文・著作物に書いてあるから周知の事実なのだ。
その計画道路が、いま、なぜ、事業化されるようになったのかといえば、臨海開発が進んだ豊洲地区(築地市場の移転先とされている)と都芯、第一京浜、赤坂を連絡する必要と、森ビルによる再開発が可能になる「立体道路制度」が法的に整備されたからだ。
(森ビルが着工しているのは、正確に言えば一部道路上に建設される「第二種市街地再開発事業」による「特定事業者制度」だ。このことは現地の工事公告看板に書いてある。つまり地権者は希望すればこの再開発ビルに自己資産と交換することで入居できる仕組みだ。)
着実に「幻のマッカーサー道路」が終焉を迎えているようだ。
そのうち、日本橋の首都高の地下化問題も現実になるかもしれない。