大伝馬町は安定した業務地区兼市街地マンション地区なのか。
今日(4月6日)の新聞では、神田駅西側の「内神田」に住民不在のワンルームマンションが増えてきて、風紀が乱れるのを心配して、千代田区はワンルームマンション建築制限条例を制定したそうだ。
ところが、大伝馬町にはそんな心配は起こりそうもない。性風俗店が仮に出来ても誰も来そうもないし、飲食店もない。
大伝馬町とは一体どんなところだったんだろうと思って、一番お手軽なwikipediaをのぞいて見た。
大伝馬町は東京市35区時代では「日本橋区」に所属(隣は「京橋区」)。
オフィス等連なる町並みで、べったら市でにぎわいをみせる街。
往時「木綿店」(もめんだな)と通称された一角には、多数の繊維問屋が戦後まで軒を並べていた。 やや東へ寄ったところには著名な呉服店・大丸屋(現在の大丸の前身)があった。
歌川広重の『名所江戸百景』に、「大伝馬町木綿店」と「大伝馬町呉服店」がある。
とされている。
すると、大伝馬町が横山町の元祖なのか。と思ったが、それでは「伝馬」の由縁がわからない。
面倒だが、『東京知ったかぶり』で伝馬町の由来を調べてみた。
要約すると、家康の三河以来の家来、馬込堪解由が家康の命により、日本橋本町の昭和通り沿いに囚人護送と幕府書類の搬送を役職として、あわせて飛脚・為替・運輸を副業とする地を賜り、
この地に宝田村の住民を移転させて「大伝馬町」の町名を賜り、地主となった。(堪解由は江戸城拡張のため千代田・祝田・宝田の3か村の住民移転が命じられていた。そのうち、宝田村の村民を移住させたところが現在の日本橋本町だ)
その後、家康の命により、大伝馬町に、家康ゆかりの国々より商人を集めて楽市楽座を開く一方、故郷の「三河木綿」の販売を目論み、三河・伊勢の商人を呼び寄せたので木綿問屋が集中し「木綿店(もめんだな)」と通称された。と記載されている。
要するに運輸と物資の集散地であり、飛脚と為替(情報と金融)の地であり、また「木綿問屋街」でもあったのだ。
この地が広重の『名所江戸百景』にも登場するわけだ。
『東京知ったかぶり』による大伝馬の由来は以下の通り。
慶長十一年(1606)当時徳川家康が江戸城拡張のため、千代田・宝田・祝田の3ヶ村の移転を、三河以来随行してきた馬込勘解由に命じた。
そこで勘解由は家康より移住を命じられた宝田村を、鎮守を奉じて集団移転させて、今の日本橋本町2、3丁目、日本橋大伝馬町が接する辺りの奥州道(現昭和通り・日光街道)沿いに落ち着けた。
その後、勘解由支配の下、囚人護送と幕府書類の配送を職(公職)とし、飛脚、為替、運輸を業(自分の副業)とした。
勘解由は地主となり、三伝馬(大伝馬町、南伝馬町、小伝馬町)取締役に出世し、役職により、大伝馬町の町名を賜った。
さらに家康の命に従って、伊勢・美濃・尾張・遠江・駿河など家康縁の国々より商人を集めて、あらゆる物資の集散地として楽市楽座とした。
結果大江戸開発に貢献し、商売の中心地として大いに賑わわしめた。現在も周辺の老舗、大小商社が軒を並べて盛んな商売取引が続いている。
伝馬とは幕府御用を与る運輸と飛脚だが、京橋の南伝馬町が月の前半、大伝馬町が月の後半を担当し第一宿までの送達に任じた。
戸口と問屋間の配送は小伝馬町が担当した。
馬込勘解由は業務上の利便から故郷の「三河木綿」の販売を目論み、三河・伊勢の商人を呼び寄せたので一~二丁目に木綿問屋が集中し「木綿店」と通称された。