さむーい日が続きますね。といっても東京は大雪が降らないだけましか。
でも無目的街撮り散歩に出かける気分にはならない。
それで、HDが一杯になってきた古い写真を少し整理しようといじっていたら、この写真はなんなんだろうとあらためて気になってきた。
撮ったときからモヤモヤしていたが、この割り切れない気分は平凡な風景に混入している「非日常」の気配のせいではないかと考え付いた。そう思うとそう見えてくる。
では、どこが?となると一枚目は説明が面倒になってくる。三枚目はべつにどこがどうということはない。二枚目だってフツーだ。
それで、「日常と非日常の境はどこ?」というキャプションを考え付いた。
一説によると、「日常」の中の「非日常」の瞬間を撮るということが「写真家」にとって、とっても大切なことらしい。
といっても、私には何のことやら分からないし、第一夫婦喧嘩絶え間ない私にとっては穏やかな「日常」と過激な「非日常」がいつから、一瞬にしてどう違うのかさえ、もう分からない。
でも、フツーにメシ喰って寝るのが「日常」で、明日がもう無いという死ぬときが多分「非日常」なのだろうというくらいは分かる。
それでは、「写真家」は究極の非日常の「死をあり難がるのか」といえば、なるほど、「他人の死」を撮っている「写真家」はかなりいる。なんたって「生まれる」と「死ぬ」は人間の存在の始まりと終わりだからね。
でも、そうなら、最もありがたい筈の「自分の死」を撮ったという「写真家」がいてもよさそうだが、そういう話はまだ聞いたことがない。
天才アラーキーならやるだろうか?それとも藤原新也か? ううむ、森村泰昌なら生きているうちに自分の死を撮るかもしれない。それ見てみたいな。早くやれ森村。涅槃図じゃダメだぞ。
以上、凡才の「考察」は写真同様、ピントがズレてきたので、これで終る。ギャーテイ ギャーテイ。