城下町川越のまちはずれのなにかわびしい夕暮れ風景。
もっとも、わたしの「侘びしい」は芭蕉の「侘び」ではなくて、「月が侘びしい路地裏の屋台の酒の」の方であるが・・
川越城は赤間川(新河岸川)で囲まれた城で、本丸跡が川越高校、城址は博物館や美術館、市立小中学校などになっている。城郭を巡る堀は別にあったが明治元年、政府に恭順の意を示して埋められた。(城郭復元図はhttp://www5b.biglobe.ne.jp/~tjk/shiseki/kanto/kawagoe/index2.htmにある)
ところで、このまちはずれの橋から川越高校(城址)までは徒歩15分くらい。
川を天然の濠としたので、西側の町はずれは意外に近い。
徳川家康が関東に封ぜられたのに伴い徳川氏譜代筆頭の酒井重忠が1万石をもって川越に封ぜられ、川越藩が立藩した。
川越藩立藩以後の川越城主は、酒井家→酒井家→堀田家→大河内松平家→柳沢家→秋元家→越前松平家→松井松平家と推移した(詳しくは川越藩を参照のこと)
江戸時代 [編集]川越藩で最大の石高を領したのは越前松平家の17万石である。
江戸時代には川越城を中心に城下町が形成され、小江戸と称された。
城下は武蔵国の商工農の中心、物資の集散地として栄えた。商品は新河岸川を通して江戸に運ばれた。川越街道は川越藩主の参勤交代や、川越藩の分領の上野国前橋との連絡で重要な役割を果たした。
1653年(承応2年) 大河内松平家・松平信綱(知恵伊豆)により、大拡張工事がなされ寛文年間に完成し、倍の規模の近代的城郭になった。
中郭、追手郭(あわせて外郭)、北東に新郭、東に帯郭、南に田郭が付加された。
川越城は、本丸、二の丸、三の丸や八幡郭、外郭、田郭、新郭などの曲輪、本丸の富士見櫓(南西隅)と虎櫓(北西隅)、二の丸の二重の菱櫓という4つの櫓[2]、西大手、南天手、一、二、三、天神、蓮池、中、清水、田郭、帯郭、新郭、埋の13の門からなり、土塁・水堀を張り巡らした総面積が9万8千坪(約326,000㎡)余りの規模をもつ城郭となった。
天守閣の代用となった富士見櫓は、基壇の高さ51尺(15.4m)、櫓の高さも51尺(15.4m)である。
信綱による修築以前の姿は、国立歴史民俗博物館の「江戸図屏風」に残っている。 城主の住居は焼失するまで二の丸にあり、二の丸には武具方役所もあった。隠居屋敷は三の丸にあり、三の丸南には馬場と馬見所が設けられた。家老屋敷は外郭に配された。新郭には米蔵や火薬庫があった。
1848年(嘉永元年) 越前松平家・松平斉典により、本丸御殿の造営が行われる。二の丸にあった御殿が1846年(弘化3年) 焼失し、再建したもので、これが現存する御殿である。
1868年(明治元年) 松井松平家・松平康英が明治政府に恭順の意を示すため、堀を埋める。