こんな写真を撮っていると、川べりの船宿の主人から声を掛けられた。
「東北大震災のとき、この川(神田川)にも津波が押し寄せたのを知ってるかね?」
えっと驚いた。そんなニュースを聞いたことはない。
本当ですか、どのくらいの津波が来たんですかと聞くと、約40cmの高さで川を逆流したという。
おじさんは「写真を撮ったからちょっと待ってくれれば持ってくる」といって家に駆け込むと、大きなパネルにA4サイズの写真が四枚張りになっているのを持ってきた。
すでに、ここを通りかかる大勢の人や船宿の利用客に見せたらしく、かなり傷んでいたが、そのうちの一枚が津波の写真で、神田川が黒い水で満たされていた。
ただし、説明を受けなければ40cm程度の増水では、動画でもないので、津波によるものかどうかは到底わからない。
おじさんは、「デジカメで撮ったので伸ばしたらボケちゃったよ」と言い訳したが、世紀の出来ごとを撮ったのだという興奮は伝わってきたので、事実なんだと確信した。
当時は東北各地を襲った津波被害のあまりの大きさとフクシマ原発への連日の報道で、被害のなかった隅田川・神田川への津波の遡流がわかっていても報道されなかったのだろう。
しかしいま調べてみると、毎日新聞のまとめによれば、東京湾内への津波は、主に午後6~8時に各地に最大波が及び、気象庁・晴海験潮所で観測された150センチは、東京都が関東大震災級の地震で想定する同120センチを上回った。千葉県沿岸はより波が高く、木更津港の283センチなど2メートル超が目立った。
一方、河川への1メートル前後の津波の遡上(そじょう)も観測された。江戸川は3キロだったが、多摩川が13キロ、荒川は28キロも津波がさかのぼった。
実際に隅田川をさかのぼる津波を目撃したという東京工業大の高木泰士准教授によると、浸水は川岸のテラスより30センチほどの高さで、約4メートルの防潮堤から見れば危険ではなかったが、地震や液状化で施設が損傷すると、周辺の海抜ゼロメートル地帯への影響が深刻となる可能性も否めないという。http://www.freeml.com/bl/8513681/33844/
(この教授の話は船宿のおじさんの話と合致する)
柳橋という「まち」より、津波の話になってしまったが、ここで簡単に柳橋という町の歴史にも触れおくと、
江戸末期に深川の岡場所から移ってきた芸妓が集まり、花街が形成され、江戸市中の商人や文化人の奥座敷となった。幸いにも交通便にも恵まれ隅田川沿いに位置していたため風光明媚の街として栄えていく。
明治初期には新興の新橋と共に「柳新二橋」(りゅうしんにきょう)と称され、その頃の花代(玉代)は、当ブログの神楽坂裏町でふれたように一席一円という高額。
昭和3年の頃では、芸妓屋195軒、芸妓366名、料理屋・待合62軒
戦後は昭和36年(1961)頃までが最盛期だったそうで、芸妓約280名、料亭70軒あまりだったらしい。
ところが、高度成長期を迎えると隅田川の水質汚濁問題とともに、高潮対策のためのいわゆるカミソリ護岸堤防の建設が川端の料亭からの眺望を妨げ、売り物の風光明媚を阻害すると同時に、接待の方法もお座敷接待からクラブ接待へと変わりはじめ、衰退の一途をたどり始め、平成11年(1999年)1月、最後の料亭「いな垣」が廃業し、紅灯の灯が消えたとされる。
しかし、隅田川の水質もその後の公害対策で徐々に改善され、船宿の方は花火大会や納涼船、釣り船として残っている。
わたしに写真を見せてくれた船宿の主人も「こんどは舟にも乗ってね」と言っていた。