21世紀のこんにちでも浅草寺は国際観光スポットとして、参詣人が絶えることがない。
とりあえず、お線香買って、とりあえず賽銭投げて、とりあえず拝むと気が済む人がそれだけ多いということか。
浅草寺は「現世利益」の観音様だが、ご利益ってなんだろうと考えた。
お参りして、仲見世をぶらついて、肉か、どじょうか、そばで、一杯やって、それで今日一日、すこしいいことしたという心の満足か。
浅草寺と三社様の由来については「more」に。
浅草寺のご本尊は隅田川で漁師二人の網にかかった高さ1寸8分(約5.5センチ)の金色の観音像。
時は推古天皇36年(628年)のこと。公開されない秘仏だから真偽不明。
一般人が拝めるのは平安時代初期の天安元年(857年。天長5年(828年)とも)、延暦寺の僧・円仁(慈覚大師)が来寺して「お前立ち」(秘仏の代わりに人々が拝むための像)の観音像を造ったものだという。これも古い話だから真偽不明。
ところで、浅草寺は「現世利益」で有名で江戸時代初期から整備拡大されたようだが、観音詣は口実で雷門を潜ってそのまま裏門から抜け、吉原へというのも結構あったらしい。
大繁盛の浅草寺を風刺した江戸川柳に
「三人の網で飯食う浅草寺」
(三人とは、観音様を網で掬った二人の漁師にたいし、これは聖観音像であるとのたもうて、寺を建てさせた土師の三人。この三人を祀ったのが三社権現(三社様)で、社が三つあるわけではない)
悪所通いの口実を風刺したものに
「よい思案雷門を二度通り」「助けるも迷わせるも浅草寺」
江戸時代までは浅草寺境内に、観音様を網で掬った漁師二人と、それを見て「これはもったいなくも聖観音像であるぞ。寺を建てて祀れ」とのたまわった土地の有力者土師の計三人を三社権現と称して祀った三社権現を浅草寺が管理してきたが、明治維新の神仏分離令により浅草寺との袂を分かち、明治元年に三社明神社と改められ、同6年に現在の浅草神社となった。
三社とは三人のことで、神社が三つあるわけではない。
三社祭は現代東京の代表的お祭だが、江戸時代の江戸三大祭とは、江戸庶民文化の中心の神田明神祭りと、隅田川以東文化の中心である深川富岡八幡の深川水掛祭りと、広大な氏子区域を持つ山王日枝神社の山王祭で、三社祭は入っていない。