筋骨派の西望がアダムを造っているのを見つけた。
この悩めるポーズはロダンに似ているが、筋肉の付き方、体つきはどこか女性的でもある。
多分、日本民族の理想の肉体・精神の優位を表現することにこだわったように思える西望が、
なぜ、ユダヤ・イスラム教の創世記に登場する人間の始祖アダムを制作する気になったのだろうか?
上野の西洋美術館の庭には、一対のロダンのアダム(泥、泥から作られ命の息吹を与えられたもの)とイブ(命、命を生むもの)像があり、こちらは創世記に従いながらも、人間誕生と同時に必然的に発生する自我の目覚めを表現している。
(アダムとアダムの脇腹の骨から作られたイブは、当初は仲睦まじく神の教えを守って暮らしていたが、イブはしだいにアダムの拘束を逃れて自立したくなり、アダムの制止を振り切って一人で森に出かけ、待ち構えていた蛇(サタン)の巧みな誘惑に乗って、神(世界の創造主)から禁じられていた「知恵の実」を食べてしまう。このことを知ったアダムは愕然とするが、イブとともに生きることを決意し、自分も禁断の木の実を食べる。こうして、二人は楽園を追放され、額に汗して働く苦しみと子孫を生む苦しみを与えられることになる。この経緯はミルトンの『失楽園』に実に見事に描かれている。『失楽園』は机に向って読むよりも、電車の中なんかで立って読むほうがすらすら読める)。
あ、渡辺センセの失楽園の話じゃないですよ)
ロダンのアダムとイブ像は創作の意図が実に明白だと勝手に思っている。
アダムはイブとともに生きることの神に対する恐れに困惑しながら恥じらっている。
イブは制御不能の燃え上がる自我に困惑しながら悶えている。
永遠に続く男と女の物語だろう。
で、西望のアダムは?勝手流のわたしでもまだわからない。
※上野のアダムとイブの写真はむかしブログに載せたものをコピーしてトリミングしたので画像が荒れています。美術館にいったついでにみて下さい。