新年おめでとうございます。
さて、海に向って建っているこの鳥居、どこにも神社がない!
普通、鳥居の扁額に書かれる文字は神社名だが、ここに書かれている文字は「平和」!
しかも、氏神は鈴木弥五右衛門!
この不思議な鳥居は60年安保の「ハガチー事件」で、全国的に有名になった羽田の弁天橋のほとりに建っている
もと穴守稲荷の大鳥居なのだ。
ではそれが、現在の穴守神社とは引き離されて、なぜこの地に建っているのかというと、それには複雑な経緯があり、それが鳥居の扁額に書かれた「平和」という文字に関係しているらしいのである。
穴守稲荷は、江戸末期に羽田の湿地帯(海)を埋め立て新田開発を行った鈴木弥五右衛門の名にちなんだ鈴木新田(私有地)に海からの侵蝕を防ぐために祀られた「豊受姫命」(伊勢神宮外宮に祀られる衣食住の三要を守る最も尊き大神とされる)を祭神とする稲荷神社で、「穴守」というのは、海から守る堤防に穴が開いて新田を侵蝕しないようにとの願いを込めた命名なのだが、普通の稲荷社の五穀豊穣のほかに、「穴守」という名から婦人病にも効験あらたか(灼)ということになり、やがて「はやり神」となって江戸末期~明治初期には周囲に遊行施設も立ち並ぶ神社となって大繁盛したらしい。
さて、羽田空港は1931年(昭和6年)、逓信省所管の日本初の国営民間航空専用空港「東京飛行場」(羽田飛行場)として正式に開港したが、昭和16年(1941年)12月に真珠湾攻撃による太平洋戦争が始ると民間航空機能は事実上停止し、陸軍軍用飛行場となって拡張・整備されたが、しかしこの時期はまだ穴守稲荷は飛行場区域外で、神社も大鳥居も健在であった。
終戦直後の昭和20年、羽田空港は占領軍に接収され米軍空港となったが、同時に空港拡張が占領統治として実施され、同年9月、海老取川以東を強制接収し、陸軍空港周辺住民約1200世帯、3000人の住民に有無を言わせず48時間以内の退去による空港拡張が実行された。
このとき空港範囲外の穴守稲荷も強制退去の対象となりやむを得ず現在地に移転することになるのだが、神社は多数の鳥居もろとも移設ではなくブルトーザーで破壊された。しかし、大鳥居だけは撤去しようとしたブルドーザーが転覆、作業員が大怪我するなど事故が絶えず、ついにマッカーサーも日本の神の威力(日本人の心情)の前に撤去を諦め、拡張した空港内での存置を認めることになったという。
その後、日本に返還後の羽田空港でも、空港整備のため邪魔な大鳥居撤去の試みはことごとく失敗し、大鳥居は第一ロビーの守護鳥居のような存在になっていたが、平成11年(1999年)、羽田沖空港拡張事業に伴い、大鳥居は新B滑走路となるため、今度こそ絶対撤去となったところ、保存を求める地元住民の移設費用の負担の申し出により、弁天橋際に移転させることになり、慎重なお払いを運輸省が行い、クレーンで吊って慎重に現在地に移転させたのだという。
ところで、大鳥居が現在建っている弁天橋際とは、移転に先立つ1960年(昭和35年)、安保改定条約の衆院強行採決で、自然成立をもくろむ岸内閣とアイゼンハワー訪日の日程調整のため来日したハガチー特使が、全学連主流が詰め掛ける空港ロビーを密かに乗用車で抜け出し、弁天橋に差し掛かったところ、空港からはるかに離れたこの場所で、民青主体の代々木系全学連と偶然鉢合わせし、ハガチーは弁天橋上で道を塞がれて立ち往生し、詰め掛けていた報道陣にも取り囲まれてにっちもさっちもいかない状態になり、脱出不能の状態に陥ったところ、駆けつけた米軍ヘリコプターでようやく大使館に逃れたという事件が起こった(「ハガチー事件」)。
この事件により、その時期の大統領訪日は日米同盟上かえって不利と判断したアメリカは、アイゼンハワー訪日を取りやめてしまった。
「岸君退陣せよ」の声が自民党有力者からも上がり始め、岸内閣は安保改定条約の自然成立を待って退陣、「所得倍増」を掲げる池田内閣が成立して、日本は本格的高度成長期に移行することになった。
「平和」を掲げ、氏神を鈴木弥五右衛門とする現代の大鳥居は、穴守稲荷と切り離されて弁天橋際に建っているが、扁額に掲げる「平和」とは空の安全と同時に世界の平和を祈願するものだとボランティア会の主意に記されている。
「平和」とは、静かな言葉だが、直接的には戦後米軍による48時間内強制退去処分を受けた1200世帯、3000人余のもと住民の怨念の鎮護をはじめ、大鳥居の羽田空港を巡るさまざまな経緯を「平和」の二字に込めたものなのだろう。それが弁慶橋のたもとに建っているということはなんとも因縁めいて感無量なのだ。
以上はwikipedia、穴守神社社史、「東京知ったかぶり」などを参照しました。