なんとなく「庭の千草」のような気分で、すべてが過ぎ去り、記憶が飛び交い、散っていくのをイメージしたのか、
それとも、荒れ果てた庭の暗がりの中で放射する樹精をイメージしたのか、どっちだといわれてもわからない。
小学唱歌「庭の千草」は、枯れ果てた庭に独り遅れて咲く白菊に思いを託して淡く寂しいが、
原曲のアイルランド民謡の原詩の方は、咲き残ったバラに死んでしまった愛する人を仮託し、「直ぐに私も後を追うだろう。・・・愛する者がいなくなったらこの荒涼たる世の中で、誰が一人で生きられようか?」と悲しく激しい心情を歌っている。
日本の唱歌も「ああ、あわれあわれ、ああ、白菊 人のみさおも、かくてこそ」と小学生には到底意味不明の歌詞があるが、この部分は唐突であり、わからないから、逆に全体のトーンの淡く寂しいいところが、なんとなくわかるのだ。
なんとなくわかるところが日本の唱歌のミソなのだ。
でも、曖昧模糊としてなんとなくわかる、それがいいのだろう。
原詩と唱歌の歌詞を比べてみると、日本人の心情に合わせていかに巧みに変容されているか驚くばかりだ。
ところでこの写真は?っていうと、 ただ湿っぽいだけか?。