「暴力装置」
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桜田門から見た現在の「桜田門」こと警視庁。
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江戸城「松の廊下」跡地。ここを通らないと参内の大名は自分の控えの間に行かれなかった。松の廊下は幕府の御書院番士によって常に見張られていた。
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竹橋からみた北桔橋門。





こんな意味不明な風景写真に「暴力装置」なんてタイトルをつけたのはただ奇を衒っただけである。


一枚目は桜田門内から見た桜田門が代名詞の現在の警視庁。
話題の「暴力装置」の代表だ。
警視庁が発足したのは明治7年。現在の霞ヶ関に庁舎を構えたのは昭和8年(1931年)だ。
現在の新庁舎の竣工は1980年。



ところで、桜田門と言えば「桜田門外の変」がまず浮かぶ。

三宅坂の現在の憲政記念館に上屋敷があった大老井伊掃部頭直弼は「安政の大獄」断行後の万延元年3月3日、江戸城登城の折、桜田門まであと百米くらいの地点で、水戸藩「脱藩浪士」など18名の襲撃を受け、60余名の供揃えにもかかわらず、首を取られてしまった。
(この日はあいにく雪の日で、供の者が刀を塚袋に入れていたため、抜くことが出来なかったためと言われている)。


「安政の大獄」で、思想犯の吉田松陰などの逮捕・死刑(斬罪)、一橋慶喜、徳川斉昭、松平春獄などの蟄居・隠居・謹慎など、幕政への介入には大名といえど容赦しない弾圧を断行した幕府「暴力装置」のトップがテロリストの返り討ちにあった事件であった。

テロリストに対するトップを失った幕府側の対応は、当初、大老の死を秘匿して病気見舞いをするなど事件を隠すことに追われ、迅速性に欠けた。これは大老の首の行方がなかなか分からず、伊井家も困惑したためであった。



さて、警視庁の話に戻ると、明治元年、江戸は東征軍の軍政下に置かれたが、7月に江戸府(行政)、江戸鎮台(軍事組織)が置かれ、同時に北町・南町奉行所が廃止されるとともに、町奉行管轄地を管掌する市政裁判所(司法・警察)が設けられた。10月になると、江戸府は東京府となったが、市政裁判所から府へ民生事務は移された。このときはまだ警視庁はない。

警視庁が誕生したのは明治7年(1874年)である。
1月15日、川路利良が初代大警視(後の警視総監)に任じられ、日本の警察制度の創立に尽力したといわれる。
このとき庁舎は鍛冶橋内旧津山藩邸だったが、後に東京駅建設のため撤去され、丸の内の明治生命の隣辺りに移されたという。現在地(桜田門、地名は霞ヶ関)に移ったのは、昭和8年(1931年)である。



東京府と警視庁は元来、別組織で、現在の自治体警察のように、県の組織として県公安委員会の下に警察があると言う関係ではない。


東京府知事(勅任官)は当初の頃は歴代公家だったが、大警視(現在の警視総監)は、同じ勅任官であっても俸給は府知事よりも多く内務次官・陸海軍中将と同額だった。警視総監の方が格上とみなされていた。(現在の警察庁にあたる組織は内務省警保局だった)。


警察官の階級(職制ではない。身分)は、巡査(明治時代は羅卒)→巡査部長→警部補→警部→警視→警視正→警視長→警視監→警視総監までとなっている。
警察庁長官は警察組織の最上位職であるが、階級ではないので、階級上は東京警視庁の警視総監が最高位である。
(警察庁の次長・局長は階級上は「警視監」で東京警視庁の副総監や県警本部長と同格である。警察庁には地方管轄本部があるが、東京都と北海道だけは管轄本部に属さない)


警視庁には暴徒の鎮圧を目的とする機動隊がある。警察署には属さない別組織で、治安出動を主たる任務とする。第一~第九機動隊があり、他に特科車両隊(新宿区市谷本村町)がある。(ただし、現在は余り仕事がないので、警察署の依頼により地域パトロールに出ることもあるという)


また、警視庁にしかない独立した部として公安部がある。防諜、思想犯対策など破壊活動対策が主任
務で秘匿性に包まれている。国の組織では法務省に属する公安調査庁がある。

警視庁も自治体警察の位置づけにはなっているが、警視総監は都議会には出席しない。
こんな任務の機動隊や公安部の諸経費も都民税で負担しているのだろうか?。



東京の首長の俸給が警視総監(勅任官)を上回ることになったのは昭和18年発足した「東京都制」により府知事が「都長官」(親任官)となり、俸給も国務大臣相当の待遇となった時期だけある。

戦後は、同じ都制であっても首長は民選知事となったので、その報酬と警視総監の俸給とどっちが上だか知らない。
by aizak3 | 2010-11-24 13:01 | 皇居
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