律令制度の下で腐敗した国司の支配に抗して、疲弊した人民救済の為に立ち上がった将門(桓武天皇の末裔と称した)は、逆賊として朝廷によって討たれ、京に送られて晒し首にされたが三日後、白光を発して故郷の地、東方に飛び去った。
将門の首が舞い降りた地の一つが、武蔵国豊島郡江戸郷柴崎村(現千代田区大手町1丁目9番)で、この場所は伊勢神宮の「神田(神の御田代)」になった場所だった。
(反乱逆賊の首が飛んできた方が先なのか、伊勢神宮の「神田」になった方が先なのか、は調べてないが、どちらにしても、矛盾しているように見えるのが面白い。いや、将門が桓武天皇の末裔なら矛盾しないのか?)

大手町の一廓に残る将門の首塚

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秋葉原を往く首

首塚保存会の将門神輿

大手丸の内町会の保存会の神輿担ぎ手

同上

同上、日曜日にお疲れ様だが大手町丸の内は将門様のお陰だという自覚がまだないみたい

拝殿

拝殿前の狛犬が睨む空 京都?
(将門の首は関東・東北各地に舞い降り各地に首塚があるらしい。つまり将門様はあずまの農民の守り神になったのだ)。
(菅原道真が文と祟りの威力で各地に祀られているのと同じだろう)。
つまり、「神田」の方が先にあれば、朝廷のご先祖の支配地の「神田」に将門の首が飛んできたということになるが、首塚がある地が後に「神田」になるとすれば、それはそれで民衆の生きる知恵というほかないことになる。
ともかく、家康の江戸開幕以前から「神田」の地名はあり、将門を祀る「神田明神(明神社)」はあったのだが、家康はこれを重視し、「神田明神」を「江戸総鎮護社」とした。
そういう政治的思惑を外れても、神田明神は江戸市民にとって、立ち入り不能な江戸城に代わる「江戸の芯」という都市機能があったと考えると面白いかも知れないとも思った。
ともかく、将門の首塚は、畏れ、敬われ、大手町1丁目9番地で、いまも祟りの威力で高層ビル資本を押し退けて、自己の存在場所を確保している。