
入谷の名所「太郎稲荷」太郎稲荷は往時の流行神で、市民殺到、お参りの順番待ちで境内裏に茣蓙を轢いて一二泊する者も出たという。

こちらは朝日弁財天。樋口一葉の「たけくらべ」に出てくるんだそうであ~る。

池があるが、鯉も亀もいない。お堂はなかなか立派。

午後6時半頃
太郎稲荷についてはシリーズはじめの入谷紹介で、紹介しておいたが、「more」に再録した。
また、上記には説明の無い「流行神」とはなにか、についても「more」に参考文献を載せた。
「流行神」を簡単に要約すると、江戸が大都市になるにつれて、「家内安全」や「商売繁盛」のような家族単位の願い事より、もっと個人的な他人に云えない願い事を叶えてくれる神が必要になり、無名な神(有名寺院の神仏ではない隠れた神)の奇跡などがうわさで広まると、人々が殺到するという現象が生じたらしい。
1 「太郎稲荷」 『東京知ったかぶり』より引用
■太郎稲荷神社
入谷2丁目19番にある。
明治41年刊行の『新撰東京名所図絵』に、
太郎稲荷神社は、光月町に在り、
幾多の鳥居をくくり、社殿は其の奥に鎮坐す。老樹鬱然昼尚ほ暗し。
惜哉今は廃せり云々
新堀の立花家の下屋敷の鎮守、太郎稲荷の流行神は、近古聞き及ばぬ群参にて
門前より本社まで凡そ十町余の右左奉納幟にて垣をなし、
神前は賽銭、供物にて山を築き信仰のもの他に越えるもの空し。
霊験もいや増して盲目は杖をはなれて初めて白日を拝し、足疾思わずも高きにのぼる。
日にまして参詣のものふえて終に屋敷裏なる畑中に夜籠りはじまり「太郎神、太郎神」と称名すれば
垣外霊狐顕る。
眞崎なる霊狐を「お出で、お出で」と云ふが如し。
されば夜籠の間、かくよびて供物をささげ己がじし願い事を祈念するとて、
余も其此人と共に二夜三夜、宵のほとぼりばかり行きて試みるに、一度霊狐のあらわるるを見たり。
尾の上共に背のあたり白毛あり。
さて寒夜田道に莚をうち敷きてうずくまり並み居るさまは不信の者の目からは古き狐に化かさるるが如し。
故に遊里(旧吉原)通ひ小唄謡ふて此処へ来かかるときは・・・云々
霊験利生の恩を請けたる者どもは寒夜籠りをめぐまんとて或は粥或は餅なんと施すも毎夜なり、
斯く甚だしきは久しからず、二、三年にして午の日ばかりの参詣も今は稀なり
2「流行神」とは
http://www7a.biglobe.ne.jp/~monadon/books174.htm
174 宮田登 ちくま学芸文庫
江戸のはやり神
江戸時代は民衆が貨幣経済を背景に進出する時代であり、民衆の人生観なり生活観を根底とした文化構造が生まれてきた。
旧宗教界は形骸化して幕府の政策とあいまって民衆を支配するための制度(寺請け)と化していた。
そのため旧宗教は民衆の受け皿とならず、民衆の欲求に応じた流行神(はやりがみ)が多数登場した。
願掛けは集団から個人へと移行した。
江戸時代に都市化して人間関係が希薄になると個人的に願掛けをおこなうようになる。
するとその内容も個人的な欲求や病気治療が主となる。この救済を求める先が霊験が細分化された流行神であった。
流行神の登場の仕方にはパターンがあった。
最初に奇跡・奇瑞のようなものが現れる。たとえば予知夢、光球が飛来する、神仏増が漂着したり掘り出される等。続いて神がかりがあったり、霊験を説く縁起話などが宣伝される。こうしてあるものは流行神になった。
流行神の創出は寺院側からも行われた。
寺院側の積極的な活動による流行神の典型が、開帳である。
寺院の秘仏そのものに霊験があるという信仰を背景に、秘仏をその縁日に公開して祈願の場を提供するのが開帳である。
一般に33年に一度と決まっているが、寺院の経済的逼迫があると臨時の開帳も開かれた。
幕府の統制は殆どなく、講ができて本山と調整しながら興行として盛大に行われた。
成田山神護新勝寺の不動明王の出開帳、浅草寺観音の居開帳が代表である。
境内の仏の中で信仰を集めたものに、地蔵・不動明王・閻魔詣りなどがあった。
地蔵は寺院の作為で霊験毎にやたらに作られ、子安地蔵をはじめ○○地蔵が多くある。
不動明王は忿怒の形相と修験の神秘性ゆえに畏怖の的であり、霊験が強いものとみなされた。
大山不動のほかに日蓮宗にも波切不動があった。
流行神の宗教的背景はさまざまであった。
氏神が産土神へ変化し更に古峰信仰を背景とした修験の関与で広がったもの、
鎮火神であった愛宕神と盆の火祭りとを熊野修験が接合してはやらせたもの、
疱瘡神だったものが巫女と修験の介在で恵比寿という福神に変化したもの、
御霊という祟り神だったものが克服されその霊験だけが残って福神=和霊(にぎみたま)となったもの、
生身の人間が苦悩のうちに死に、霊験を持つようになった霊神信仰、
太古の境界神の記憶、呪物崇拝、田の神、物言う魚…。