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田無宿の面影を求めて 7 田無警察から橋場まで  このシリーズはこれでおしまい
田無警察(明治・大正期は甲州街道の府中宿にある府中警察の田無分署だった)を西側(橋場側)に進むと、しだいに街道筋でむかしは栄えた商店街の面影は薄れ、街道筋にある古くからある個人商店の感が強くなる。

橋場から先は(今回は撮らなかったが)幕末に「これより先七里人家なし」といわれた風景の面影をさらに感じるようになる。


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この明治・大正初期の地図による業種別商店数の一覧はむかしの田舎の宿場町の構成をよく表している。
旅館に料理屋に糸まゆ仲買人に馬力屋に車屋にうどん・まんじゅう屋は多く、そばやは一軒しかない。


●何度も通っているのに「田無宿」という視点で街道筋を撮ったのは初めてだ。まちの面白そうなところをスナップするというのと視点を定めて撮るというのは違う。平凡な写真でも自分にとっては大変勉強になった。


●「武蔵国」は古代国家の領域を指す概念で、「武蔵野台地」は海進と河川によって削り取られて段丘を形成した地質的概念だが、「武蔵野」というのは本来は、関東ローム層(武蔵野台地では富士山の噴火灰)に覆われた武蔵野台地の中でも水利条件に乏しく、耕作不適地のため一面の原野だった武蔵野の不毛地帯をさす概念だったところ、明治になって国木田独歩がそこに里山と明るい疎林の美」を発見すると、この文学的イメージが一般化して主として多摩川沿いの河川段丘をさす言葉となった(独歩以前の江戸時代では耕作不適の萱・ススキの原野を指し、、日比谷も浜松町も武蔵野であった)。したがって明治以降の武蔵野とはどこかという区域を限定することは「イメージの世界」の問題であり、はなはだ漠然として時代と共に流動するので確たる区域を限定することは出来ない。

●田無は果たして武蔵野なのかというはじめに感じた素朴な疑問は、耕作不適地という意味ではかつてそうであったし、独歩の世界(武蔵境から国分寺までを逍遥して発見した風景の美の世界)とは違うような気がしても、それは人さまざまであるという漠然としたイメージの中の世界の違いというほかないようだ。
by aizak3 | 2014-01-12 11:48
田無宿の面影を求めて 6 駅前再開発ビルの裏側の街道筋
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むかしは田無で一杯といえば「坂平」くらいしかなかった。看板に百年の伝統と書いてある。百年前といえば明治45年(大正元年)。


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田無宿明治・大正復元地図にあるように、いまも坂平と隣り合っている。


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野崎屋も昔どおりの場所にある。

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地図にある田中まんじゅう屋は旧駅前通の左側にあって、いまも同じ場所に田中ビルがある。田中ビルの一階は定食屋の「くい亭」となっている。この写真の「たなかや」は街道の北側だから地図にある田中まんじゅうではないが、たなかが経営する洋食・酒房かもしれないと思って撮った。田中ビルの方は宿の面影はないので撮らなかった。


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街道沿いのビルとビルの間にけっこう広い路地があってへんな建て方だなと思って覗いてみると旧家の屋敷が見えた。
どうなってるんだと思って入っていくと門の奥の玄関に大型犬がいて、それ以上近づくと吠え付くぞといってるので家人が出てきてトラブルになるのは敵わないので退散した。


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看板建築の本屋。復元地図にはないが古そうなので撮っておいた。


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本屋の隣の田無で唯一のビジネスホテル。戦争中に石播や住重の工場が疎開してきてシチズン時計の工場も出来て戦後の一時期まではは流行ったのだろうが、住重も石播も撤退。跡地はマンションになった。いまは出張ビジネスマンも少なくなっただろう。昼間の健康湯もやっている。


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この地図の登記所の位置がどうも腑に落ちない。
いまの登記所の位置は道路一本西側の田無警察の南側の辺りだ(地図上の南側田無用水の用の字の当たりか)
坂平、末広の裏が登記所になっているが、この場所は現在再開発ビルが建っている位置だ。
by aizak3 | 2014-01-09 17:53
田無宿の面影を求めて 5 総持寺門前の街道筋
青梅街道筋の田無宿といわれる地域のなるべく古くからありそうな建物を撮ってみた。

田無中央図書館が地元の古老を集めて聞き書きで作った明治末・大正初期の田無宿の地図を頼りに、撮った写真をその地区別に集めて編集しているのだが、青梅街道と交差する道路の拡幅やそれに伴い無くなった店舗や移動した店舗もあるだろう。また、閉店してマンション化した建物もあるだろう。

どんなまちでも時代と共に変わっていくのは当然だが、明治・大正期の地図とは照合できない建物の方が圧倒的に多い。
それでも同じ屋号で残っている建物がいくつかあるということの方が東京郊外の田無では稀有というべきか。



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むかしの地図とほぼ同じ場所に建っている福沢屋。後ろにあった町役場は駅南口に移転して、いまは総持寺の一部になっている。呉服・ふとん・雛人形店。


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福沢屋に隣接している大正形式の建物。商店ではないらしいが、なに屋だったのか不明。いまは住宅として使われている。


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そのむかいあたりにある看板建築の二棟。染物・織といっても失礼ながら商売になっているのだろうか。


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かもじやはむかしは文字通り「かもじ」屋だった。いまもその屋号を名乗っているが、現在は仏具・神具店。総持寺・田無神社門前だから商売替えしたのだろう。


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「かもじや」の隣の「かさや」。こちらも古老の話に出てくる「かさや」(番傘)で、丈夫でいい傘だったとのこと。現在は雑貨屋。でも、次の写真にあるように、熊手、竹箒、草箒、枯葉用塵取、スコップなど農家が残る郊外市街地ならではのものを売っている。
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復元された地図にもある「トラヤ」。地図にもある佐々医院(現在は佐々病院)も現存するが、周辺には病院・医院が多い。
「調剤薬局」兼ドラッグストア。


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地図にある野口屋は生菓子屋で古老の話では旨かったそうだが、どうも地図にある場所とは違うようだ。地図では総持寺の参道の脇にあるのだが。ところで、この写真は6年前のものだ。現在は取り壊されて更地になりビル工事中だ。


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復元地図で見ると呉服店があった場所だが、「松坂屋」の屋号はない。ただの「ごふくだな」。しかし建替えらていてもむかしの区画を残しているので撮っておいた。つぎの写真にあるように骨董屋に見えるが草履・鼻緒屋らしい。
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個々に見える布袋様のようなものも甕も6年前と同じだ。売り物ではないのか。


今回の地区はこれでおしまい。ただの雑居ビル(焼肉・居酒屋など)は撮らなかった。

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●まちなみに影響を及ぼした田無の交通機関の発達
1 幕末   伝馬駅を核に商店が並んだ田無宿時代。交通手段は徒歩交通。農家が蔬菜・花き類を市場に売りに行く交通手段は手押し車。

2 明治時代 明治2年、青梅街道の田無・新宿間に乗合馬車が開通。
       明治22年、中央線の前身である甲武鉄道の新宿駅・立川駅間開通と同時に境駅(現武蔵境駅)開業。田無宿に馬車屋もできる。

3 大正時代 大正10年、新宿・荻窪間に路面電車(西武軌道。後に都電となる)が開通。
       田無も荻窪まで出れば路面電車に乗れるようになった。乗合バス屋(大型ワゴン車改造)も出来たらしい。

4 昭和時代 昭和2年、西武新宿線の田無駅開業。


●まちなみに影響を及ぼした社会的事象
1 西武線田無駅の開業

2 日米開戦による戦時防空対策として都内工場の多摩への疎開(田無にも住重・石播の工場進出)

3 戦後の都営住宅の進出、農地の宅地化による新住民を対象とする団地前スーパー(コープ)。

4 平成7年7月 の駅前再開発に伴う再開発ビル(アスタビル)のオープンと周辺への商店の進出。
  駅ビルと橋上駅で南口とつながり、南口にも飲食店が進出した。
  完全に中心街は駅前商店街に移った。
by aizak3 | 2014-01-07 14:30
田無宿の面影を求めて 4 総持寺でみつけた歴史
田無神社についで街道の中心だった総持寺にいってみた。

総持寺は明治政府の神仏分離令により、明治5年、西光寺から尉殿大権現が分離独立して、田無神社となると共に、西光寺、密蔵院、観音寺の三寺が合併して総持寺となった。

漫然と総持寺の前を素通りしていたときには気づかなかったが、今回「田無宿」という視点で眺めてみると変わったものが二三あった。

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仁王門を潜って大提灯を裏から眺めると奉納者の「海老沢」の名に気付いた。この海老沢さんは田無宿で一軒きりの通称「タンス屋」と呼ばれた海老沢呉服店の末裔の海老沢だろうか。それとも戦後、平和観音を田無駅前に建立した歯科医師の海老沢だろうか。どちらも同じ海老沢だろうか。
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仁王門の裏側には「広目天」と「多聞天」がある。これは「広目天」の方
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この「広目天」のすぐ脇に、無縁農家菩提の大きな碑がある。これは一体どんな歴史を秘めているのだろうか。
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大正6年、田無柳沢の宿屋「田丸屋」から総持寺に遷座したという成田山新勝時の「滝の不動尊」。
どんないきさつがあるのだろうか。新勝寺も田無山総持寺も同じ真言宗智山派ではあるが。
田丸やさんは現在も酒類販売店として、田無神社はずれの青梅街道の角に残っている。
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古いオフダの小炊き上げ用の結界。
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山門を出ると参道脇に「平和観音」の立像を見つけた。脇にある由緒書きによると、1945年4月、B29の爆撃により田無駅前で50数名が爆死し、8月15日に至るまで田無全域で百数十名の命が犠牲となったことを悼み、歯科医師海老沢太一氏が爆心地に観音像の建立を呼びかけ、下田武主氏が所有地を無償提供され、駅前の爆心地にこの「平和観音」を1957年4月建立したが、駅前再開発により、1992年「アスタビル」建設のため移転を余儀なくされ、この地に移転したと書かれている。

駅前広場には、この「平和観音」の代わりに、「田無平和の日」条例制定祈念碑が建てられたという。
なーんかしっくりしない話だ。
下田氏が再開発で「権利(資産)」を受け取る代わりに「平和観音」の撤去に応じたのだろうか。それとも「観音」は宗教施設なので、駅前広場(公有地)に存置するわけには行かないという理屈だったのだろうか。
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by aizak3 | 2014-01-04 12:28
田無宿の面影を求めて 3 神社前の門前蕎麦とフォトスタジオ
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田無神社前辺りは武蔵境通りと青梅街道の交差点になっているので、マンション化されてむかしの田無宿のの面影を残す建物はない。
有名な旅籠やの「田丸屋」もいまは一階は酒類販売店で上はマンションになっている。

この門前蕎麦と写真スタジオだけが街道の門前らしさをかろうじて保っている。
by aizak3 | 2014-01-02 14:03
田無宿の面影を求めて 2 田無神社と下田半兵衛
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●田無神社は明治政府の神仏分離令により、明治5年に「別当寺」の西光寺(現総持寺)から分離独立した神社で、もとは「尉殿大権現」(じょうどのだいごんげん)といった。

別当寺とは、寺院が神社の管理権を掌握する場合の呼称で、神仏分離令が発せられる以前の日本では各地に見られた神仏習合思想に基づく寺院神社一体形態で、神社では別当寺の社僧による読経、加持祈祷が行われた。(別当寺、神護寺、宮寺などを総称して「神宮寺」というそうだ)



聖徳太子が仏教を導入し、これを国造りの基本原理としたとき、無辜の民は迷った。
いままで信仰してきた氏神様や神様と新しい仏教の仏様の関係はどうなのかと。


この関係は、権力上位の上層階級では問題なく仏教優位だったが、一般土民階級では頭が混乱するので仏教は浸透せず、しばらくは氏神信仰は廃れることはなかった。

しかし、天地垂迹説が現われ、この矛盾を土民の自然崇拝感情に逆らうことなく解決した。
つまり仏は世界に普く返照するが、土民にはわかりやすく、いままで信仰してきた「神」という形で現われているだけなのだと。
土民の精神構造にはなんの革命も強いるものでもなく、こうして、神仏習合は日本人の精神構造になんの問題も惹き起さず、平穏理に江戸末期までやってきたのだ。


ところが、明治政府の神仏分離令によって突如、尉殿大権現が西光寺から独立され、田無神社となったとき、神社に掲げられていた「尉殿大権現」の扁額が、これは仏の位を表すものだとして問題になり、取り外されたので、別当寺であった西光寺(現田無山総持寺)が保管しているという。この経緯を表した西東京市教育委員会の立て札が神社内に建っている。


●西光寺(総持寺)も田無神社も設立改修の経費は田無の名主であった下田半兵衛が負担したものである。下田家(代々半兵衛を襲名した)(総持寺は明治5年に田無神社が分離独立した折、西光寺、密蔵院、観音寺の三寺が合併して総持寺となった)


●話を田無神社(尉殿大権現)に戻すと、江戸末期に下田半兵衛富宅(とみいえ)は医師賀陽玄順(玄節の子)の助言を得て江戸の神田まで足を運び、安政5年(1858)に名工の誉れの高かった嶋村俊表に痛みが激しかった尉殿大権現(現・田無神社)本殿の再建を依頼した。
俊表は養老・福祉の精神に満ちた半兵衛富宅の人柄に惚れこみ、この大仕事をわずか200両で請け負ったといわれる。 俊表の最高傑作といわれる現在の本殿は安政6年(1859)(万延元年(1860)との説もあり)に完成した。大工は鈴木内匠が務めた。

●田無神社本殿が完成した翌年の万延元年(1860)7月7日に下田半兵衛富宅は亡くなった。

●明治5年以後、分離独立した田無神社の宮司には医師賀陽家が代々引き継いでいる。最初に田無に定住したのは岡山藩医だったといわれる賀陽玄節。以下玄順→玄斉→清。

●総持寺の総総代は現在も下田家。(田無の近世史は名主下田家なしに語れないようだ)

●神社内に大鵬の碑がある。これは平成12年(2000年)、大鵬が寄贈した土俵を自ら「大鵬」と号したことを記念して翌年宮司賀陽清が建てたもの。
大鵬は引退後の平成5年(1993年)に五穀豊穣(ほうじょう)を祈念して土俵開いた。平成11年(1999年)には田無神社崇敬会初代会長に就任。その後、名誉会長を務めた。
by aizak3 | 2013-12-31 13:24
旧田無宿の面影を求めて 1 田無神社
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田無用水跡を撮っているうちに、だんだん「田無宿のいま」を撮ってみることに興味がわいてきた。
それは用水の歴史をざっとでも調べざるをえなかったからだ。

用水の歴史を知ると、旧青梅街道沿いに出来上がっていった「田無宿」とはどんなとこだったのかが知りたくなり、その面影がどう現在も残っているのかが知りたくなった。


新宿追分から甲州街道から分かれる青梅街道の田無宿はかつては、新宿は別にして、青梅街道沿いでは、中野、田無、青梅以外に「まち」らしい「まち」はなかったといわれる「伝馬継ぎ立て機能を主とした宿」だが、青梅街道の開通と玉川上水の分水による田無用水路の完成で単なる伝馬駅から周辺農村への必要品供給市場へと発展していったようで、1869年(明治2年)、新宿と田無間に乗合馬車が開通し、最盛期は現在の青梅街道を横切る西武新宿線のガード下の柳沢から田無中心を経て、橋場に至る約1.5kmの商店街を形成した(下記地図参照)

しかし、青梅街道も現在では拡幅され、柳沢宿あたりはもはや田無宿の面影を残すものはない。

拡幅された青梅街道から旧青梅街道への分岐点に現在も残る「田丸や」から橋場までが現存する「田無宿」の名残りである。

それで、現在の田無宿はかつては中心であったのに、現在は田無の外れになってしまった「田無神社」から始めることにした。


★田無神社とは神社の由緒書きによれば、「創立は正応年間(建長年間説もありますが、いずれも鎌倉期、十三世紀)です。旧田無市と旧保谷市の境界が入り乱れる田無村の谷戸の宮山(現在の田無2中辺り)に鎮座し、尉殿大権現(じょうどのだいごんげん)と呼ばれていた。ご祭神は龍神様(水の神様)」。
青梅街道の完成に伴い、谷戸の人々が田無宿に移ると共に、正保三年(1646年)に宮山から田無(現在の地)に分祀し、寛文十年(1670年)には、宮山に残っていた尉殿大権現の本宮そのものを田無に遷座した」となっている。
★宮司は代々賀陽済家が勤めていた。
賀陽家とはもと岡山藩医だったといわれ、田無に立ち寄ったところ、医者がいなくて困っていた田無村の名主下田半兵衛に懇願され、岡山から妻子を呼び寄せ田無村に定住したと伝えられている。ただし資料はなし。


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by aizak3 | 2013-12-30 00:01
田無用水跡地からの風景 4
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総持寺別院の観音寺がある場所の用水路跡の風景である。

観音寺の参道は用水路を跨いで青梅街道に繋がっている。

用水路跡に面して小型のスーパーも建っている。
こちらは用水路を跨いで青梅街道に通じる古くからの道があるので、その道に面する形で用水路跡にも面して建っているというのが正確なのだろうが、実際は用水路に面して建っているという印象である。



総持寺は田無宿の中心ともいうべき場所にある真言宗智山派の寺院であるが、西光時と密蔵院とこの観音寺が合して出来た寺院である。
しかし、観音寺はなぜかむかしのままの場所に建っているのだ。
by aizak3 | 2013-12-27 17:38
田無用水跡地からの風景 3
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練馬の田柄川の水量不足を補うための田無用水からの分水路の周囲の風景。
ここは田無駅前再開発で出来た駅前の南北大通りの一歩裏の風景でもある。
南北大通りには再開発で大型ビルが建ちならんだが、一歩裏は用水路がそのままの線形で残されているのだ。
渋谷でもすでに廃川化され、下水敷となった渋谷川の源流の一つ隠田川の跡をたどったことがあるが、川沿いがどんなにシブヤ化されようとむかしからの公共用地を潰すことは出来ないからそのまま残っていた。
田無用水跡も田無の歴史を刻んでそのまま残るだろう。
by aizak3 | 2013-12-23 11:18
田無用水跡地からの風景 2
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用水路跡はいまは暗渠の下水敷となっている。表面はカラー舗装された歩行者専用通路で、青梅街道の歩道は狭いので、歩行者・自転車には格好の通路である。
巾一間程度なので、建築基準法上の道路とも認定されないのだろう。
だからここから見る風景はみんな各家の裏を覗くという格好になる。
犯罪写真か。
by aizak3 | 2013-12-20 14:21