青梅街道筋の田無宿といわれる地域のなるべく古くからありそうな建物を撮ってみた。
田無中央図書館が地元の古老を集めて聞き書きで作った明治末・大正初期の田無宿の地図を頼りに、撮った写真をその地区別に集めて編集しているのだが、青梅街道と交差する道路の拡幅やそれに伴い無くなった店舗や移動した店舗もあるだろう。また、閉店してマンション化した建物もあるだろう。
どんなまちでも時代と共に変わっていくのは当然だが、明治・大正期の地図とは照合できない建物の方が圧倒的に多い。
それでも同じ屋号で残っている建物がいくつかあるということの方が東京郊外の田無では稀有というべきか。
むかしの地図とほぼ同じ場所に建っている福沢屋。後ろにあった町役場は駅南口に移転して、いまは総持寺の一部になっている。呉服・ふとん・雛人形店。
福沢屋に隣接している大正形式の建物。商店ではないらしいが、なに屋だったのか不明。いまは住宅として使われている。
そのむかいあたりにある看板建築の二棟。染物・織といっても失礼ながら商売になっているのだろうか。
かもじやはむかしは文字通り「かもじ」屋だった。いまもその屋号を名乗っているが、現在は仏具・神具店。総持寺・田無神社門前だから商売替えしたのだろう。
「かもじや」の隣の「かさや」。こちらも古老の話に出てくる「かさや」(番傘)で、丈夫でいい傘だったとのこと。現在は雑貨屋。でも、次の写真にあるように、熊手、竹箒、草箒、枯葉用塵取、スコップなど農家が残る郊外市街地ならではのものを売っている。
復元された地図にもある「トラヤ」。地図にもある佐々医院(現在は佐々病院)も現存するが、周辺には病院・医院が多い。
「調剤薬局」兼ドラッグストア。
地図にある野口屋は生菓子屋で古老の話では旨かったそうだが、どうも地図にある場所とは違うようだ。地図では総持寺の参道の脇にあるのだが。ところで、この写真は6年前のものだ。現在は取り壊されて更地になりビル工事中だ。
復元地図で見ると呉服店があった場所だが、「松坂屋」の屋号はない。ただの「ごふくだな」。しかし建替えらていてもむかしの区画を残しているので撮っておいた。つぎの写真にあるように骨董屋に見えるが草履・鼻緒屋らしい。
個々に見える布袋様のようなものも甕も6年前と同じだ。売り物ではないのか。
今回の地区はこれでおしまい。ただの雑居ビル(焼肉・居酒屋など)は撮らなかった。
●まちなみに影響を及ぼした田無の交通機関の発達
1 幕末 伝馬駅を核に商店が並んだ田無宿時代。交通手段は徒歩交通。農家が蔬菜・花き類を市場に売りに行く交通手段は手押し車。
2 明治時代 明治2年、青梅街道の田無・新宿間に乗合馬車が開通。
明治22年、中央線の前身である甲武鉄道の新宿駅・立川駅間開通と同時に境駅(現武蔵境駅)開業。田無宿に馬車屋もできる。
3 大正時代 大正10年、新宿・荻窪間に路面電車(西武軌道。後に都電となる)が開通。
田無も荻窪まで出れば路面電車に乗れるようになった。乗合バス屋(大型ワゴン車改造)も出来たらしい。
4 昭和時代 昭和2年、西武新宿線の田無駅開業。
●まちなみに影響を及ぼした社会的事象
1 西武線田無駅の開業
2 日米開戦による戦時防空対策として都内工場の多摩への疎開(田無にも住重・石播の工場進出)
3 戦後の都営住宅の進出、農地の宅地化による新住民を対象とする団地前スーパー(コープ)。
4 平成7年7月 の駅前再開発に伴う再開発ビル(アスタビル)のオープンと周辺への商店の進出。
駅ビルと橋上駅で南口とつながり、南口にも飲食店が進出した。
完全に中心街は駅前商店街に移った。