田無宿の面影を求めて 6 駅前再開発ビルの裏側の街道筋
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むかしは田無で一杯といえば「坂平」くらいしかなかった。看板に百年の伝統と書いてある。百年前といえば明治45年(大正元年)。


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田無宿明治・大正復元地図にあるように、いまも坂平と隣り合っている。


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野崎屋も昔どおりの場所にある。

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地図にある田中まんじゅう屋は旧駅前通の左側にあって、いまも同じ場所に田中ビルがある。田中ビルの一階は定食屋の「くい亭」となっている。この写真の「たなかや」は街道の北側だから地図にある田中まんじゅうではないが、たなかが経営する洋食・酒房かもしれないと思って撮った。田中ビルの方は宿の面影はないので撮らなかった。


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街道沿いのビルとビルの間にけっこう広い路地があってへんな建て方だなと思って覗いてみると旧家の屋敷が見えた。
どうなってるんだと思って入っていくと門の奥の玄関に大型犬がいて、それ以上近づくと吠え付くぞといってるので家人が出てきてトラブルになるのは敵わないので退散した。


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看板建築の本屋。復元地図にはないが古そうなので撮っておいた。


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本屋の隣の田無で唯一のビジネスホテル。戦争中に石播や住重の工場が疎開してきてシチズン時計の工場も出来て戦後の一時期まではは流行ったのだろうが、住重も石播も撤退。跡地はマンションになった。いまは出張ビジネスマンも少なくなっただろう。昼間の健康湯もやっている。


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この地図の登記所の位置がどうも腑に落ちない。
いまの登記所の位置は道路一本西側の田無警察の南側の辺りだ(地図上の南側田無用水の用の字の当たりか)
坂平、末広の裏が登記所になっているが、この場所は現在再開発ビルが建っている位置だ。
# by aizak3 | 2014-01-09 17:53
田無宿の面影を求めて 5 総持寺門前の街道筋
青梅街道筋の田無宿といわれる地域のなるべく古くからありそうな建物を撮ってみた。

田無中央図書館が地元の古老を集めて聞き書きで作った明治末・大正初期の田無宿の地図を頼りに、撮った写真をその地区別に集めて編集しているのだが、青梅街道と交差する道路の拡幅やそれに伴い無くなった店舗や移動した店舗もあるだろう。また、閉店してマンション化した建物もあるだろう。

どんなまちでも時代と共に変わっていくのは当然だが、明治・大正期の地図とは照合できない建物の方が圧倒的に多い。
それでも同じ屋号で残っている建物がいくつかあるということの方が東京郊外の田無では稀有というべきか。



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むかしの地図とほぼ同じ場所に建っている福沢屋。後ろにあった町役場は駅南口に移転して、いまは総持寺の一部になっている。呉服・ふとん・雛人形店。


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福沢屋に隣接している大正形式の建物。商店ではないらしいが、なに屋だったのか不明。いまは住宅として使われている。


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そのむかいあたりにある看板建築の二棟。染物・織といっても失礼ながら商売になっているのだろうか。


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かもじやはむかしは文字通り「かもじ」屋だった。いまもその屋号を名乗っているが、現在は仏具・神具店。総持寺・田無神社門前だから商売替えしたのだろう。


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「かもじや」の隣の「かさや」。こちらも古老の話に出てくる「かさや」(番傘)で、丈夫でいい傘だったとのこと。現在は雑貨屋。でも、次の写真にあるように、熊手、竹箒、草箒、枯葉用塵取、スコップなど農家が残る郊外市街地ならではのものを売っている。
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復元された地図にもある「トラヤ」。地図にもある佐々医院(現在は佐々病院)も現存するが、周辺には病院・医院が多い。
「調剤薬局」兼ドラッグストア。


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地図にある野口屋は生菓子屋で古老の話では旨かったそうだが、どうも地図にある場所とは違うようだ。地図では総持寺の参道の脇にあるのだが。ところで、この写真は6年前のものだ。現在は取り壊されて更地になりビル工事中だ。


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復元地図で見ると呉服店があった場所だが、「松坂屋」の屋号はない。ただの「ごふくだな」。しかし建替えらていてもむかしの区画を残しているので撮っておいた。つぎの写真にあるように骨董屋に見えるが草履・鼻緒屋らしい。
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個々に見える布袋様のようなものも甕も6年前と同じだ。売り物ではないのか。


今回の地区はこれでおしまい。ただの雑居ビル(焼肉・居酒屋など)は撮らなかった。

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●まちなみに影響を及ぼした田無の交通機関の発達
1 幕末   伝馬駅を核に商店が並んだ田無宿時代。交通手段は徒歩交通。農家が蔬菜・花き類を市場に売りに行く交通手段は手押し車。

2 明治時代 明治2年、青梅街道の田無・新宿間に乗合馬車が開通。
       明治22年、中央線の前身である甲武鉄道の新宿駅・立川駅間開通と同時に境駅(現武蔵境駅)開業。田無宿に馬車屋もできる。

3 大正時代 大正10年、新宿・荻窪間に路面電車(西武軌道。後に都電となる)が開通。
       田無も荻窪まで出れば路面電車に乗れるようになった。乗合バス屋(大型ワゴン車改造)も出来たらしい。

4 昭和時代 昭和2年、西武新宿線の田無駅開業。


●まちなみに影響を及ぼした社会的事象
1 西武線田無駅の開業

2 日米開戦による戦時防空対策として都内工場の多摩への疎開(田無にも住重・石播の工場進出)

3 戦後の都営住宅の進出、農地の宅地化による新住民を対象とする団地前スーパー(コープ)。

4 平成7年7月 の駅前再開発に伴う再開発ビル(アスタビル)のオープンと周辺への商店の進出。
  駅ビルと橋上駅で南口とつながり、南口にも飲食店が進出した。
  完全に中心街は駅前商店街に移った。
# by aizak3 | 2014-01-07 14:30
田無宿の面影を求めて 4 総持寺でみつけた歴史
田無神社についで街道の中心だった総持寺にいってみた。

総持寺は明治政府の神仏分離令により、明治5年、西光寺から尉殿大権現が分離独立して、田無神社となると共に、西光寺、密蔵院、観音寺の三寺が合併して総持寺となった。

漫然と総持寺の前を素通りしていたときには気づかなかったが、今回「田無宿」という視点で眺めてみると変わったものが二三あった。

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仁王門を潜って大提灯を裏から眺めると奉納者の「海老沢」の名に気付いた。この海老沢さんは田無宿で一軒きりの通称「タンス屋」と呼ばれた海老沢呉服店の末裔の海老沢だろうか。それとも戦後、平和観音を田無駅前に建立した歯科医師の海老沢だろうか。どちらも同じ海老沢だろうか。
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仁王門の裏側には「広目天」と「多聞天」がある。これは「広目天」の方
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この「広目天」のすぐ脇に、無縁農家菩提の大きな碑がある。これは一体どんな歴史を秘めているのだろうか。
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大正6年、田無柳沢の宿屋「田丸屋」から総持寺に遷座したという成田山新勝時の「滝の不動尊」。
どんないきさつがあるのだろうか。新勝寺も田無山総持寺も同じ真言宗智山派ではあるが。
田丸やさんは現在も酒類販売店として、田無神社はずれの青梅街道の角に残っている。
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古いオフダの小炊き上げ用の結界。
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山門を出ると参道脇に「平和観音」の立像を見つけた。脇にある由緒書きによると、1945年4月、B29の爆撃により田無駅前で50数名が爆死し、8月15日に至るまで田無全域で百数十名の命が犠牲となったことを悼み、歯科医師海老沢太一氏が爆心地に観音像の建立を呼びかけ、下田武主氏が所有地を無償提供され、駅前の爆心地にこの「平和観音」を1957年4月建立したが、駅前再開発により、1992年「アスタビル」建設のため移転を余儀なくされ、この地に移転したと書かれている。

駅前広場には、この「平和観音」の代わりに、「田無平和の日」条例制定祈念碑が建てられたという。
なーんかしっくりしない話だ。
下田氏が再開発で「権利(資産)」を受け取る代わりに「平和観音」の撤去に応じたのだろうか。それとも「観音」は宗教施設なので、駅前広場(公有地)に存置するわけには行かないという理屈だったのだろうか。
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# by aizak3 | 2014-01-04 12:28