都市の装置 7 公衆便所3 有楽町 五条 都庁脇 地下広場
都市の装置 7 公衆便所3 有楽町 五条 都庁脇 地下広場_d0082324_10122593.jpg
有楽町西銀座でパート脇の路地。むかしは公衆便所だったと思うが閉鎖されている。一般人はデパートを利用できるから困らないが岡本太郎の時計台の下あたりにいつもたむろしている人たちは困るだろう
都市の装置 7 公衆便所3 有楽町 五条 都庁脇 地下広場_d0082324_10145025.jpg
京都五条交差点付近の大通りでこの鳥居を発見したときは驚いた。誰がいつ鳥居と格闘するのだろう?五条の橋は夜が更けると暗闇になるのか?
都市の装置 7 公衆便所3 有楽町 五条 都庁脇 地下広場_d0082324_10184834.jpg
都庁広場に繋がる新宿3号街路に面した公衆便所。都庁に来る観光客などは中にトイレがあるからほとんど利用しない。写真の奥に映っている高架街路9号の下は大型バスの駐車場になっているが、この脇でダンボールで生活する人たちが洗濯や体を拭いたりするのに便利だ。都庁は「シティー・ホール」などという羊頭狗肉な別称を掲げているが、この人たちに一番役立っているのがこの公衆便所だ。
都市の装置 7 公衆便所3 有楽町 五条 都庁脇 地下広場_d0082324_10365269.jpg
新宿地下広場の公衆便所。利用者は多い。




パリに大環状下水道が完成したのが1740年。ジャンバルジャンが逃げ込んだのが、この大下水道で、この話を記憶にとどめた日本人は、ヨーロッパは先進的で日本ははるかに遅れていたと思い込まされてしまう。


だが、この下水道は都市排水を目的としたもので糞尿処理を目的としたものではなかった。

糞尿漂う中をジャンバルジャンが逃げ回ったのではない。


下水道以外にもパリの地下は切り出した石の穴が迷路のように繋がっているそうで、ちょっと前までは「探検」出来たそうだが、現在では危険なので出入り口が封鎖されているそうだ。


パリの下水道に屎尿の直結が許可されたのは1880年(明治12年)だった。


屎尿処理に下水道を使うというのはそれまでの都市排水を目的とした下水道機能の大転換で、下水道はセーヌ川(上流は飲料水の供給源)に放流されていたので、浄化処理をしなければ川は汚染されてしまう。事実、パリでは屎尿の下水道直結によってセーヌ川の汚染はさらに悪化した。

だが、度重なるコレラの流行と便所を持たないパリ市民の文化習慣で糞尿が街路に撒き散らされるので、もう待ったなしの状態で、便所の設置を市民に義務付けると同時に、浄化装置なしの下水道に直結することを決断したのだ。



産業革命がイギリスで起こったのが1760年ごろ。都市に人口が爆発的に流入し都市環境の悪化に拍車がかかった。


ロンドンでは1815年(パリに先立つこと実に64年)に下水道に屎尿を流すことを許可、1848年には屎尿を下水道に流すことを義務化した。
近代資本主義の発展と都市の衛生環境の悪化とが下水道整備の促進と屎尿処理に下水道を利用するという下水道の目的の大変換を起こしたのだ。


本来の下水道の役割は敷石で舗装され、高度に稠密化する都市の雑廃水の処理と大雨対策だったようだ。
ヨーロッパの各都市で下水道が必要になるのは、すべて石で作り、石で舗装する城砦都市としての都市の形態に由来するもので、木造建築の未舗装都市で大雨対策はそれほど必要ではなかった日本のドブの機能と本来はさしたる違いはない。


この下水道の機能が疫病対策として、各家に便所の設置を義務化し、それを下水道に直結することによって下水道の性格に変化を生じたわけだ。


といっても、下水道の浄化処理法が急に出来るわけもないので、次善の対策は川に放流する前に都市郊外の巨大な溜池に一時貯留し、上澄みと沈殿物を選り分け、沈殿物は乾燥して肥料として農村に送り込むぐらいだった。
(パリでは当時し尿の大部分はパリ北東部のモンフォーコーンの石切場跡地に投棄され、大地の斜面を利用して造った穴をし尿が順々に流れ下ることによって、 固形物と液状部分に沈殿分離し、液状部分はセーヌ川に流し、 底に残った部分は天日で乾燥し、肥料として主に野菜栽培者に売っていたらしい。

 やがて都市が膨張すると、この処理を続けることが難しくなって、遠く離れたボンデイの森に投棄場所が移されることになり、1849年に移転しました。 一方でパリ市内の低所得者層が多く住む住宅では、トイレ設置が義務化されても家の下に穴を掘り、し尿の液状部分を地中に 浸透させるだけ、という吸い込み式トイレも多く残っていたらしい)。


活性汚泥法(微生物を用いた下水の近代的処理方法)の最初の処理場が、資本主義の先進国イギリスでできたのが1914年(大正3年)のことだったとされている。

このことは産業資本にとって都市の衛生対策がいかに必須の課題になってきたかを物語っている。


ところで、幕末の江戸の人口は100万とも200万ともいわれる人口稠密都市であったが、屎尿は最初から「下肥」の材料として「商品」であり(屎尿はそのままでは肥料にならない。肥溜めで微生物による発酵処理を経て「下肥」になる)、つねに「需要過多」の状態にあったので、武家地のトイレも特許された農民に「商品」として売りさばかれ、町人の大店の便所も、長屋の共同便所でもみなそうだったという。


江戸の屎尿が全部「商品」だったというと眉唾の話と思われるだろうが、供給より常に「需要過多」の屎尿価格は高騰し、江戸近郊の武蔵国東葛西領の村々が1789年11月勘定奉行所に「下肥元値段(下掃除代金)」の引下げを願い出たことが記録さている。
この値下げ運動には武蔵・下総両国より37か領1,016か村という多数の村々が参加し、これにより価格は 14%引下げられたが、価格は再び高騰し、値下げの請願運動は幕末期まで続いた。


つまり江戸の屎尿は近郊農村から引っ張り蛸で、江戸は屎尿の処理には困らない清潔な都市だったということになるが、それは江戸が「東京」になって近代化されるまでの話でだった。


「近代化」つまり資本主義化した「帝都」東京の人口集積は直ちに居住環境の悪化を招いた。
1877年(明治10年)、ヨーロッパからコレラが輸入されて大流行し、排水処理が悪かった神田地区で1884年(明治17年)本格的下水道の始まりである「神田下水」が完成したが、これは屎尿処理を目的としたものではなかった。


東京の屎尿処理は維新後も汲み取り方式であったが、都市人口の膨張、農村人口の減少で需給バランスが崩れ、屎尿は商品ではなくなり、しだいに有料で業者に汲み取って貰う形になった。
(昭和5年(1930年)には排泄物の処理は東京市などの自治体の義務となり、昭和9年(1934年)にはその処理が有料となった)。


ようするに、資本制「近代都市」は放置されれば居住環境を悪化する。公共体がこれを体制維持のために救済する。
公衆便所も単なる都市美化のために必要なのではない。本質は防疫にあったのだ。
そういえば、新宿地下も一時はホームレスの体制攻撃で悪臭紛々としていたことがあった。
屎尿を「兵器」に変えたのは楠木正成が先駆者だったようだが、屎尿処理は体制間の戦争なんだな。



最後に開高健が激賞する糞尿博士中村浩『糞尿博士・世界漫遊記』(現代教養文庫・社会思想社)
http://members.jcom.home.ne.jp/emura/funnyou.5htm
をご紹介したい。この人は東大理学卒の教授だが、屎尿の究極のリサイクル法として、クソそのものから食物を再生することを生涯のテーマとされ、世間では相手にされることが少なかったようだが、この研究にソ連が着目、国賓待遇で研究を吐露されてきたそうだ。


当時は米ソの宇宙開発競争のさなかで、宇宙飛行士が少しの持参食料で長期滞在を可能にするには自分のクソの食料化は魅力ある研究だったに違いない。
荒廃する地球を救うためにも自分のクソの食料化は決め手になるのではないか。
開高健も阿部公房も小説にしてくれなかったのが惜しい。
(でも今日では宇宙飛行士が自分の小尿をろ過して飲料水として飲んでいるのはもはや周知の事実となった)
by aizak3 | 2009-06-30 10:41
<< 都市の装置 8 公衆便所4 超... 都市の装置 6 公衆便所2 渋... >>