都市の装置 6 公衆便所2 渋谷駅西口前路上
たんなる便所ブログのような写真になってしまったが、あくまで「都市の装置」として取り上げているつもりである。トイレの歴史を調べようとすると意外に断片的で、きちんとしたものがないのに驚く。
江戸・東京のトイレに付いては東京都清掃局が編纂した「東京都清掃事業百年史」があるが、web上では目次しか公開さていない(ただし申し込めば書籍・CDの閲覧は可能のようだ)

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国道246号に面した西口公衆便所。駅前でもありトイレは駅にも、近くの飲食店、ほかの店舗にもあり、困ることはないと思われるのに意外に利用者が多いのに驚く。なぜだろう?待ち合わせ中にいらだつのか。
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超キレイではないがまあ合格だろう
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むかしはコンクリート打ち放しだったけれど改装されて外観はキレイになった。




日本で最初に行政が管理する公衆便所が出来たのは、明治初期に横浜だったとされている(横浜横浜市資料による)。

横浜は開港場で、外国人が多いため外国との対面上、美観美習を重視して、ヨーロッパの都市の歴史の実体を知らない明治政府が、路傍で放尿する習慣を日本人だけがする行為と勘違いして「日本人のもっとも恥ずべき習慣」として厳しく取り締まり、明治4年に「放尿取締の布告」を出して、立ち小便にはその場で罰金100文を科すこととし、その監視に邏卒(警官)を走り回らすとともに、町会所の費用をもって辻々に83箇所の「路傍便所」を設けたのが始まりのようだ。

4斗樽を地面に埋め込んで板囲いをしただけの簡単なものであったが、この路傍便所が日本で最初の公共トイレであったといわれている。



東京では明治の中期ころまで、外出時の市民の放尿・脱糞は行政の関与対象とは考えられおらず、各人が自分で始末するのが当然のことだった。

しかし、相次ぐ伝染病の流行で明治16年ごろから街頭に公衆トイレが建ち始めたという。
初めは木造が多く、各区バラバラで臭気もひどく街の美観も損なう状況だったといわれる。

明治19年、ヨーロッパからやってきたコレラが流行、これを機に内務省は区(現在の「区」ではない。東京市が成立したのは明治22年)町村に衛生組合を設置し、「コレラ予防法心得書」を刊行、東京府庁・各郡区を通じ、地主、差配人、人力車、馬車組合、旅館、理髪店、銭湯などに配布した。それによると、
(9) 宵越しのゴミ・生ゴミを家の周りに捨てない
(10) 下水・芥流・糞壷は4・5日に一度は浚い、人家から遠隔の地に捨てること
とされた。
要するに汚いものは遠くに捨てるということで、これは屎尿処理システムが整っていた清潔な江戸時代に比べると大変な後退であった(後述)。

その後、木造簡易作りの公衆トイレを統一し、構造様式の仕様を定め材質も煉瓦造り、石造りとして、明治36年には、東京市は15区のトイレを直営とし管理・保守点検等を行っていたという。



ところで、フランス革命期のパリでは、すでに公衆便所が沢山できていたらしいが、不潔で用を成さず、人々は「よそで」用を足すのが普通だったという。「よそ」とは街路や植え込みの隅の暗がりであることは当然だ。
そのため、トイレを意味する「toilet」はオランダ語では単数で使うが、フランス語では複数「toilettes」で使う。フランスでは複数でなければ用を成すものが見つからなかったからだといわれる。



土木技術で有名な古代ローマでは現代にさきがけて、市内には公衆便所が設置され、その数は紀元前315年の時点で144カ所、紀元前33年には1000カ所以上にも及んだという。

世界史最古の「有料」公衆便所も、西暦74年にローマ帝国が設置したとされている。
これはウェスパシアヌスが内乱後の財政立て直しのために口臭便所の有料化を行ったもので、その政治的敵対者の嘲笑を買ったが、それに対する反論、ecunia non olet(「金は臭わない」)は有名な文句となった。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)



1830年代中頃パリの警視総監であったアンリー・ジョセフ・ジスケは、
パリの路上で働く下級労働者(その多くは当時盛んだった住宅建築現場で働く人々)が所かまわず立小便をしているのが外国人のひんしゅくを買っていると日記に書き、市内に1500カ所の公衆便所を造ることを提案した。

しかし、下水道整備が先行しなければ実現不可能で、結局それはコレラの大流行後のナポレオン3世のパリ大改造による下水道整備とパリ万博(1867年)開催による公衆便所の促進事情があったが、屎尿と下水道が直結されたのは1880年代の入ってからのことだったようだ。


ちなみに明治元年は1868年なので、横浜開港時にはパリの実情と比べたって「波止場人足」の放尿をそんなに恥ずかしがる必要はなかったのである。
しかも、江戸の糞尿処理体制は、糞尿が近郊農村に「商品」として取引されていたので、世界一清潔な都市だったとされているのである。(ウソではなくほんとの話だ)


長くなるので、本日はここまで。
by aizak3 | 2009-06-27 17:39
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