西荻 駅周辺散歩 5
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撮っていて小洒落な軽文化な街だなぁと独り言。

杉並に人口が増えだしたのは一般に関東大震災が契機だったといわれている。
しかし人口が爆発的に増大したのは、戦後の昭和30年代からで、東京オリンピックの頃(昭和39年)には50万人を突破し、その後はほぼ横這いとなっているらしい。
不思議なことに丸焼けにされた戦後すぐには東京人は杉並に移り住まないで、高度成長期になって杉並に人口が流入し、それもすぐ頭打ちになり、東京の人口はさらに西の三鷹、吉祥寺へ移っていったのだ。

杉並の交通開発史としては、中央線(甲武鉄道)は明治29年に開通したが、杉並には荻窪駅一駅しかなく、いまのように高円寺・阿佐ヶ谷・荻窪・西荻窪の四駅になったのは大正11年のこと。
大正2年に笹塚~調布間を開通させた京王線の方が早かった。
昭和2年には京王井の頭線が開通した。
つまり、乱暴な言い方をすれば、杉並の住宅地を開発したのは京王線で、中央線の方はその他人口の受入れ地だったのではないか。

「杉並」の地名を全国に一挙に有名にしたのは、焼津のマグロ漁船「第五福竜丸」のビキニ環礁での被爆に伴う世界的な「原水爆禁止運動」の発祥の地になったことだ。この市民運動(反対運動)の経験の蓄積がいまにも深く継承されているらしく、プチブル的(おお、懐かしい言葉だ)市民運動(反対運動)がさかんな地域だ。「杉並市民」なんて言葉が良くも悪くも似合う街だ。
荻窪駅前の青梅街道の交通渋滞はいまでも健全。「クルマ社会」に反対する市民自身の違法駐車も多い。なかでも自転車の違法駐輪の多さは一時は有名だった。高円寺駅前通りも高円寺駅南口で行き止まり。北側は狭い通路に商店街建ち並び、消防活動の支障になっているのに変な作家が「人情横丁」なんて命名したから、区役所も災害を防ぐ道路の拡幅は諦めたらしく、裏側の住宅地だけを区画整理して、「人情横丁」はカラー舗装して商品の出っ張りをちょっと引っ込ませて終わりにしたらしい。区役所ごと「市民派」って印象。
偏見独断の悪口になってしまったなぁ。
by aizak3 | 2009-03-07 12:28 | 中央線沿線
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