いざ日原集落へ 1
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右上の道路が日原街道。旧日原村は日原街道の下に二段階の道路があり、日原街道の上にも二段階の道路があった。
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中央の三角山は日原集落(旧日原村からみえる稲村岩(いなぶらいわ)。、日原街道から分岐する日原林道にある石灰岩が露出した岩山である。いなぶらとは稲の束のこと。




奥多摩駅から日原(にっぱら)集落中央部までは約5Km。途中には街道から外れた山の上に小集落はあるが、街道沿いの集落はない。

この日原集落から観光地の日原鍾乳洞まではさらに約2Kmある。


日原地区の現在の主たる産業はこの地区にあるトボウ岩と天祖山の燕岩、立岩の奥多摩工業の石灰石採掘とここからさらに約2Km離れた先にある日原鍾乳洞による観光収入である。


現在の人口は約60~70人、面積は62.04k㎡。小学生はゼロ。


奥多摩町を象徴するような高齢化、過疎化の集落だが、たたずまいには豊かさの匂いがする。


旧日原村の成り立ちについての詳しいことは「more」に記載した。









奥多摩町日原集落(旧日原村)は、JR青梅線奥多摩駅付近で国道411号(青梅街道と分岐する日原街道の最終集落である。奥多摩駅(旧氷川駅)から日原集落中心までは約5kmの距離がある。途中には大きな集落はない。

日原(にっぱら)集落を過ぎて日原街道を進むと、一石山神社と日原鍾乳洞があるが、集落はない。

道自体は、小川谷を渡る小川谷橋上流で日原川に沿う日原林道を分岐し、天祖山西側に至る道と、日原川の支流小川谷に沿う日原街道に分かれ、日原街道は天祖山東側の石灰採掘場となっている燕岩、立岩に通じているが、この道は3・11大震災の影響で鍾乳洞前で一般人は現在通行止めとなっている。そのため燕岩、龍岩には行かれない。

日原集落の現在人口は約60人、集落の面積は62.04k㎡。


旧日原村は南北朝・室町時代、武州熊谷の原島村の地侍(足立郡、大里郡に所領をもつ在地領主館主)の原島丹次郎友一が、足利の配下であったが南朝の新田義貞側に着き、敗れて足利に領地を没収され、奥秩父の浦山口から山伝いに日原に落ち延びて、日原を開拓したということになっている(天正の頃という。また明応年中(1492~1500)ともいう)。

(浦山口には現在も原島姓が多いという。それが、原島が日原に落ち延びて定着後の交流によるものか、落ち延びる際のものかはわからない)

原島丹次郎友一は後北條家の配下となったが、間もなく後北条家が没落すると、土民となったという。



それ以前から日原地区に村人が住んでいたかどうかはわからない。



しかし、日原鍾乳洞は古くから修験者の修行場として知られており、その当時の日原集落の人々の暮らしは、山菜取りと主としてその修験者や一般参詣人の案内・宿泊の世話で成り立っていたらしい。ただし日原には畑地に適した平地はない。
しかし、原島丹次郎友一が逃れてきとき、既にいくらかの土民は定着していたと考える方が自然だろう。


奥多摩地方が中央権力と接触した最も古い記録は、天平9年(737年)、大化改新後の律令制国家の建設に伴い、武蔵国の現府中市に国衙(こくが)が置かれ、現国分寺市に国分寺と国分寺尼寺が20年の歳月をかけて造営されたとき、(国分寺は僧侶1000人余の宿坊を擁する大都市だったといわれる)大量の建設資材が必要となり、それが武州の杣山(そまやま)杣保(そまほ)に求められたときだったようだ。(杣山は国家直轄国有林、杣保は荘園林)


奈良期武州杣山は国衛の杣山(国営林)でその範囲は奥多摩地方から高麗郡、入間郡西部、比企郡西部更に飛地として秩父地方の金尾、黒谷が該当していました、
多摩地方が国衛の杣山に指定された理由は杉、檜など建築に必要な巨樹の生息地で それを切り出し輸送する河川である多摩川が付近を流れ、巨樹同様に建築資材である石材(チャート岩)が採取可能であった為と考えられます。

古代、中世、江戸期の頃杣保から切り出された木材は用途に応じて適当な長さに切断され枝などの突起物が切り落とされます、物によっては木材を仕上げ加工する場合もありました、それら木材は一端輸送用のソリに載せて麓の河川まで運ばれ多摩川本流で筏を組み多摩川流路で平野部まで輸送されていました。



国分寺の造営に20年歳月を要したということは、日原を含む奥多摩の林業・石材採掘業を長期安定産業にしたということでもあるだろう。


原島丹次郎友一の子孫は、孫の右源太友兼(系図上では子)の時から一石神社の社家となり(新編武蔵風土記稿による)、丹次郎一族は、その家系図によると丹次郎友一から、右源太友兼、右京亮友安、友正、淡路友則(後略)と続いていく。一石山大権現に仕える社家は、右京(原島本家)と淡路(原島本家から隠居し、後に独立)を名乗る二家があり、江戸時代右京家は村名主役を、又、淡路家は村年寄役を勤め、社家職と村役の職は代々世襲により明冶の初めまで続いた。


ところで、原島丹次郎友一と共に奥多摩に落ち延びた者に、弟の丹三郎友連がいる。

友連は現在の古里駅周辺の丹三郎村と小丹波を開拓し、林業・石材業で財を成して村名に名を残した。
その子孫とするものが現在、青梅線古里駅そばの大きな城の様な屋敷(宮造り)の奥の旧屋敷(文化財)を保存維持費を捻出するために他人に貸して「丹三郎」という蕎麦屋を営業させている。



丹治郎、丹三郎とも「丹(たん)」の名が着くのは、原島家が武州七党と言われる在地領主(地侍)の一つである「丹党」に属することを表している。

「丹党(たんとう)」は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて武蔵国入間郡・秩父郡・および児玉郡西部(旧賀美郡)にわたって繁栄した武蔵七党の1つである武士団で、第28代宣化天皇の子孫である丹治比の後裔を称し、各種史書でもいずれも宣化天皇後裔としている。しかし矛盾点が多く、疑問が呈されている。一説の古文書には丹党は熊谷次郎実常の末裔ともいう。


一石神社の獅子舞は慶長17年(1612年)、出羽の国羽黒山から僧道栄が先達となって四十八本の梵天と共に獅子頭三つを持って渡来してから始ったと伝えられという話もある。
by aizak3 | 2012-10-30 09:24
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