路地ついでに、きょうは神楽坂のフツーの生活道路の風景。
フツーの生活道路といっても、ところどころに飲食店が混じるが、まー止むを得ない。
料亭街の路地風景では、いままで取り上げてきた裏町・路地風景との比較にならないので、しもたやの多い裏通りの日常風景とした。
ところで山の手の下町といわれる神楽坂が、料亭花柳街として発展したのは、関東大震災(大正12年)以後のことという。
明治初年頃にも神楽坂に花柳街はあったらしいが、このころの芸者の格付けでは神楽坂はかなり低い。
余談だが「明治初期の東京の芸者は、一等地が花代壱円の新橋と柳橋、二等地が日本橋、葭町、新富町、数寄屋橋で八拾銭、三等が烏森、吉原で五拾銭、四等が深川、神楽坂の参拾銭、五等が赤坂等であったようです」
花代(玉代)とは一席一時間くらいの座持ち料。それが明治初年で一円とすれば、芸者の一月の稼ぎは大変なものになるだろう。
★しかし、芸者の格付けは時代とともに変遷したようだ。(詳しくは「芸者の歴史」で検索してね)
・江戸初期=元吉原芸者(「吉原芸者」は遊女・花魁ではない。とくに吉原は遊郭だから峻別されていた)
・江戸中・後期=「辰巳(深川)芸者」から「柳橋芸者」に移る(吉原からの訴えで辰巳芸者は(ひそかに「芸」+「色」を売るものが出て、岡場所化しつつあった)ので、幕府の取締りで壊滅。吉原への船宿のある柳橋(現台東区)に大川を越えて移る)
・明治初期~後期=「柳橋芸者」から「新橋芸者」に移る(新橋とはいまの新橋駅周辺ではなく、いまの町名では銀座芸者というほうが当たっている。芸者の芸妓研鑽所である「新橋演舞場」は銀座6丁目旧築地川(現首都高)の采女橋際にある。銀座8丁目の「金春芸者」も新橋芸者という。新橋芸者が隆盛を極めたのは、汐留め停車場が新橋駅となり、政府高官や三井など財閥が社交場にその芸者を重用し、芸者の質が上がったためといわれる)
もうひとつの新興勢力が「赤坂芸者」。明治初年には五等でしかなかった赤坂が軍人を顧客に新橋、柳橋と肩を並べ始めた。
・戦後=占領軍接待で一時隆盛した。
・現在=赤坂、柳橋もほとんど廃業。新橋のみ。企業接待の場もクラブ、バーに移行したため。
料亭・割烹の重用された「機能」はその機密性にある。そこに侍る芸者も同じことが要求された。
したがって警視庁がまず聞き込みする対象はそうした機密性の比較的薄いゴルフ場のキャディー、運転手と一時言われていた。