夢見る風景 
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上の写真とは関係ないが、
きょう、東京地方での新暦の盂蘭盆施餓鬼大法会を営む。
わがやは日蓮宗なのでお題目の「南無妙法蓮華経」を何十回も唱えるうちに、
わがやでひめやかに行った母の新盆の読経とは別の大法会の意味を知ったように思った。


もともとやおよろづ(八百万)の神の国で、聖徳太子以来普及していた「文明(先進文化)」の仏教思想を破毀するために、封建体制から統一国家「日本」を創設するために、明治政府が無理強いに挙行した天皇制神道復権政策(神仏分離、廃仏稀釈)で、失われた仏教共同体(講、宗徒)の名残りを感じる一日だった。

(こんなことは、終戦直後はもちろん、昭和の高度成長期までは当然のことだったのに、国家神道とおさらばしたついでに、仏教共同体ともおさらばしたのが現代だろう)


仏教(ほとけのさとり)は、もともと、仏典に拠れば各国各地の神を排斥しない。

ほとけの深いさとりを聞いた各国、各地の神は、よろこんで仏の守護神となるのである。


つまり、ほとけのさとりは、神の思想とは衝突せず、それを超越したところに展開しているからなのだ。
ほとけは神ではなく、神すら超越したさとりの境地に到達した絶対知(知恵)の存在だからだ。


その本来の関係を逆転させて、仏を日本古来の神(アマテラスなど)の守護神としたのが、日本の神仏習合思想(国家統治者の思想)であったのが、やがて文明度(文化度)でいかんともし難い差のある「ほとけ」の思想の「甚深未曾有、深入無際」の壮大な思想に押されて、仏優位が否定できなくなると、「本地垂迹説(日本の神が民衆に分かり易いように仏という仮の姿になって顕われているのだという説)」が現われたりした。


世界思想(世界哲学)である仏教思想を素直に受け入れることを拒否して、あくまでも日本古来の氏神信仰の純粋独立性を保守し、その上に、各地方の氏神信仰とは本来異形な天皇家の氏神のアマテラス大神を頂点として全国各地の氏神を序列化しようとする国家神道は、封建日本から天皇制統一国家日本を構築しようとする極めてイデオロギー的な贋宗教思想だったのだ、と思う。
by aizak3 | 2011-07-20 23:11 | ご近所
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