写真=情報だとすると、百人町は情報満載だな。
ただ、その情報の意味は撮った本人にもわからず未確定のままだ。
上の写真とは関係ないが、百人町という町名のいわれとなった鉄砲百人組は、江戸城西方の守りで、また江戸城大手門ないにある壮大な百人番所(門番)に他の組と交替で詰めていた由緒ある下士らしいが、その名を冠した末裔のまちの現状がこれだと思うとなんとも理解し難い。
もっとも、幕府崩壊とともに慶喜は駿府に蟄居し、旧幕府傘下の武士も現地から離散したのなら、町名は単なる過去のいわれにすぎないことになるのだが。
(幕府崩壊と共に江戸の旧武家地はみんな空家空地となり、明治政府が接収して「官庁」として使用したもの以外は、その広大な空地は一時、都心でも茶畑になったらしい。当時外貨獲得の輸出品はお茶と絹で、政府は桑とお茶の生産を奨励した。これを「桑茶政策」というらしい)